花輪飾り

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私は小さい頃から不器用で。

この国に来たときに、それを何とか克服するきっかけになったのがこの花輪作りかもしてない。

学校で一番怖いと恐れられていたカンチャナー先生が日本でいう家庭科の担当で。まずは日本ではわりと高級だけれど、こちらでは安価に売られているデンファレが目の前にどんと置かれて、『花びらを外して同じ大きさに整えなさい』といわれる。

どうにかこうにか整えると、串焼きに使うような長い針で折り畳んだ花びらを一枚一枚均等に並べていく。均等に並んでないときれいな曲線を描かないので、これが最初は上手く行かない。

なにより、花びらをうまく折り畳むことすらできないのだから困ったもので、『あんたは不器用ね』といわれながらようやく小さな花輪を作ることができた。

こつがわかって来て集中してやれるようになると、無心にこれを作るようになった。
花輪飾りのデザイン本などまで買って、いくつもの花びらや葉を組み合わせた模様のものを作ったりするようになった。

花輪の房に使う花を家の近くで摘んでいったりと、手芸、とは言わないのだろうけれど一時期は楽しんでやったものだ。

忘れられないのは母の日の花輪。この国で母の日の花はジャスミンなので、ジャスミンの花で豪華な花輪を作ってこちらでお世話になっているお家のお母さんにプレゼントをした。

帰国前には、学校の友達のラン農家にデンファレを卸値で売ってもらい(自転車に乗らないほど大量だった)、学校で習った先生全員に花輪を作って送ったのも忘れがたい。

私にこの国の言葉を教えてくれた先生は、私が帰国したあと5年程はすっかり枯れた花輪を自室に飾ってくれていた。

この国では公式の場で感謝や歓迎を表すときには花輪を送る。この国のやり方で不器用な私なりに感謝を表したかったのかもしれない。

 

 

オレンジ色のワンピース

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この国に最初に来た十代の頃、この国はまだまだ今のような豊かさをもった国ではなかった。

この国の家族にお世話になって数週間目のこと。『結婚式に行くわよ』と誘われた。結婚式なんて、日本にいた時だってほとんど出たことがない。何を着ていったらいいんだろう。ものすごく悩んで。

洋服は普段着ばかりをそろえていったのだけれど、一枚だけ『何かあったときに』と普段の私があまり着なかったようなオレンジ色のワンピースをもって来ていた。目の覚めるようなオレンジ色の大きな花柄の模様は、自分にとっては派手だけれど、初めてのこの国でのおめでたい席にふさわしいような気がした。

一緒にいくという、すぐ下の妹にこれを着ていこうと思う、と確認したら、いいんじゃないという。無礼でないならと安心してそれを着ていくことにした。

当日。オレンジ色のワンピース姿の私を皆が『きれい』『似合うね』といってくれて近所のおばさんと妹と結婚式に向かった。

でもなぜか妹は私とはなれて歩いて、一緒に歩いてくれない。近所のおばさんに私を連れてくるようにといって先を歩いていった。おばさんはもうテンションマックスで、楽しみで仕方が無いようだったが、なんだか一抹の不安を感じていた。

この国の地方の結婚披露宴は花嫁の家の前などで舞台などを組んで中華料理のテーブルをたくさん並べて行う。みんな三々五々やって来て好きに食べて騒いでいる。オレンジ色のワンピースの外国人はそれはもう注目の的で。

花婿側の親戚や友人はみんな列をなして初めて身近に見る日本人を一目見て写真を一緒に撮ろうとわれもわれもとやって来た。

この時点で、このワンピースが大失敗だと思ったって、もう遅い。妹はどこにいるかわからず、断るすべも、先に帰る手だても無く、ただそのリクエストに応じるしかなかった。花嫁たちとその友人たちがお互いの腕を組んでぴったりと寄り添いながら私をにらんでいる。

所在ない、というのは本当にこういうことを言うのだろう。
そんな気持ちにこのオレンジ色のワンピースが本当にミスマッチで恨めしいことこの上なかった。何よりも、彼女の晴れの舞台にケチを付けてしまったことが申し訳なかった。

そのあとわかったのは、結婚式は破れていないこぎれいなTシャツにアイロンをあてて、穴のあいていないジーパンで十分だったということ。

オレンジ色のワンピースは、その日以降一度も袖を通すことは無かった。

 

天国からのメッセージ

2012.01.30 Umareyoubi 2gatu
ちょうど去年の今頃書いたお話しです。自分の関係のところでは明らかにしていなかったので。少し編集して載せます。

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17年前にパソコンで知り合った知人で、相手のことはあまり知ることもなく、ただ日々の思いなどをやり取りしていたお友達でした。お互い仕事を持ち、充実しているけれどなんとなく満たされないようなことを感じていたのかもしれません。そんな彼女と少しずつ意気投合して、やり取りを続けていました。

とはいえ、すごくちゃんと距離を保った、礼儀正しい、文通のようなやり取り。そんな距離感も併せて二人とも楽しんでいました。

一度だけプレゼントのやり取りをしてその時に 彼女の本名と住んでいる場所を知ったのでしたが、それでも相変わらずメールだけでやり取りを続けていました。

数年が経ち、メールのやり取りは自然消滅してしまっていました。私の環境も彼女の環境もその満たされない何かを求めるように動きだした結果、変化をしたからだったと思います。

改めて彼女のことを思い出すことになったのは2年前のことです。

震災の被害地が彼女の住む町だったのです。
名前もうろ覚えでハンドルネームしか覚えておらず、安否を確かめるにも方法がありませんでした。

それでも時折、彼女は無事なんだろうか、と思う日が続いていました。

今年に入ってもはっきりと覚えていませんが、何度か彼女のことを言っていたそうです。

昨日テレビで 震災特集を見ていました。海に沈んでいた携帯電話に奇跡的に電源が入り、ご両親達に思いが伝わったという内容でした。

彼女のハンドルネームは少し変わった彼女の名前から取られていて、その彼女の名前がテレビから流れた時、あぁ、彼女だ、と。

娘さんとご両親の安否を気遣うメッセージ。あのころはまだ子供さんいなかったよなぁと思いながらテレビを食い入るように見ました。

彼女がなくなっていたことは悲しいことですが、偶然にも彼女の最後を知れたこと、ご家族への思いが携帯を通して伝わったことをとても嬉しく思いました。

くしくも私がこの国に旅立つ数日前にこのニュースが流れたことも、なんだか私にもそれを知らせてくれたような気がしてとてもありがたく思い、冥福を改めて祈りました。

 

細い路地を抜けて そのいち

2013-08-15 16.32.50

 

この国のこの地域に居を構えたのは、日本で会社を作って間もなくの頃だったと思う。

あまりにも、知っている暮らしとかけ離れたところだと暮らしにくくて。だんだんと西に移動して来た。この街の中でも古い街の部類に入る、中華街。

すぐ近くには学校があって、朝はお母さんやおじいちゃんに手を引かれた子供たちが登校してくる。

 

屋台も老舗の料理屋も目白押しなこの辺りは、食べるものにも事欠かない。町中よりも物価も安い。何よりその雑多な感じが昔の生活を少し思い出させるのに十分で、いつの間にかここにいてもう5年以上になる。

住まいからてくてくと歩いて出かけるとまずは学校の守衛のおじさんが声をかけてくる。交代勤務なので数人いるけれど、皆声の掛け方が微妙に違う。『どこいって来たんだとか、仕事なのかとか、誰と会うんだ?」とか笑。
だけれど、気づけばいつでも声をかけて来てくれる。手なんて振るようにも見えない、強面の元警察官のおじさんたちが遠くから私を見かけると、いつからかひらひらと手を振ってくれるようになった。なんだかかわいい、とくすくす笑いながら通り過ぎる。

表通りに行くのに少し近道をするには、ちょっと薄暗い裏路地を抜ける。この路地を通る勇気が出たのはここに長く暮らすようになってから。

どこかの屋台の仕出しの材料を家の前でじゃんじゃん作っているお家の前を通る。時間帯に酔っては大忙し。家族総出で、練り物を練っていたり、そこに入れる長い豆を切っていたりする。

「アルプスの少女ハイジ』に出てくるセントバーナードのような大きな犬がのっそりのっそりと間を行き交っているけれど、いたって人畜無害で小学校に上がる前の子供たちの面倒を見ている。もうきっと結構な年寄りなのかもしれない。寒い日には子供用のTシャツなんかを着せてもらっている。

夕方の風が出る頃になると、パパに成り立てのこの奥の長屋のお兄ちゃんが一つになるかならないだろう娘を抱いて、路地に出てくる。土地神様をまつる祠の脇に腰をかけて、最愛の娘と会話している姿を横目で微笑ましく見ながら通り過ぎる。

彼らともいつの間にか挨拶をするようになって、暑いですねーなんていいながら通り過ぎると、今度はおじいちゃんがプラスティックのいすを家の前に出して座っている。

玄関、というかロックのかかる網戸みたいなものしか無いぐらいだし、部屋の中も丸見えなので目に入る限りはあんまり日もあたら無さげなので、涼しい時間は大抵そうやって表で座っている。

この国の人らしく、たいていは上半身はだかに首から下げたお守りだけというラフなスタイルで、ぼんやりと子供たちや行き交う人を眺めている。どうしても帰ってくるときには、おじいさんが正面にいるので何も言わずに通り過ぎるのが難しくて『こんにちは』と挨拶しだしたのが初めだった。ご病気なのかもしれないけれど、無口なのでお話しはしたことが無いけれど、私が買い物をして帰ってくると、だいたいニコニコしながらうなずいてくれる。

こんな風に毎日夕方行き交う人を眺めるまでどんな人生を送っていたんだろうね。

その先には、鴨肉ラーメンの店があって一度食べたけれど、ちょっと口に合わなくって二回目はなし。そのせいか、挨拶もしにくいのだけれど、だいたいこの辺りに一昔前のカンフー映画なんかに出て来そうなフルメイクばっちりのいつもきれいにした華僑系のおばあちゃまがいてる。

おじいちゃんに挨拶しだした頃から、「どこいくの』『何かって来たの』なんていう、基本フレーズでのやり取りをおばあちゃまともするようになった。

この辺りは長屋なので、何しているかがばっちりわかっちゃうような生活と仕事環境で。猫も犬も悠々自適に好き好きに伸びたり寝転んだりしている。その一角に1スペースだけ分からない場所。背筋のピンと伸びたおじいちゃんが、決まった時間、日曜日は休みで立ったままで壁に向かってひたすら作業をしている。身なりもいつもきちんとしていて、職人感漂うこのおじいちゃまはこの国の人らしからず、いつ見ても仕事をしているので、挨拶すらしたことが無い。機会があれば、何をしているのか聞いてみたかった。

そこまでくるともう隣の路地に抜ける。右にはフルーツジュース屋台、左は焼豚のせご飯屋さん。ここは老舗って書いてあるんだけれど、入ったことが無い。というか入る勇気がない。ここの店主の小さいおじいちゃんがいるのだけれど、小さいパグをかっていて、顔がおんなじ。よく散歩させていて、犬もいつも店の前にいるんだけれど、ほんとに似ていて笑っちゃう。

また別の通りのお話は、また今度。

赤いノート

2013-01-07 11.02.01

 

今、文字を書いたり読んだりする仕事をしているのは、いろんな要素があるだろうけれど、文字を読んだり書いたりするのが好きだったのは、子供の頃からだった。

叱られるからと布団の中で懐中電灯つけて本を読んでいたというぐらい本が好きだった母の影響かもしれない。

書くのが嫌いじゃないのも小さい時からで、絵よりも文字を書いていたように思う。うまくかけなくて、自分の絵が嫌いだったのをぼんやり覚えている。

何より、小さい頃の記憶が乏しい私の記憶は、10歳ぐらいからはじまる。まさにその始まりはその日記を書いているシーンだ。

赤い小さな手帳。その頃はやっていた鍵付きのものではなかったと思うけれど、当時人気を二分していた猫のキャラクターの方が私は好きだったので、そのイラストがついていた。

自分の気持ちをしっかりまず書いたのをはっきり覚えている。そのあとに、なぜならと続けたことまで。だけど、なぜならの後ろは覚えていない。

夕飯が終わって後片付けを手伝ったあと、机に向かってこのノートに制限無く、自分の思いをつらつら書くのが何より好きだった。嫌だったこと、嬉しかったこと。いろんな思いをノートに綴った。

人に見せるという目的で書かれていないので、文章も今読めば訳が分からなかったろうと思うけれど、いろんな悩みや不満や日々の暮らしで気がついたこと、今思えば誰にもいえなかったことを延々とノートに綴っていた。

白い罫線だけの真っ白なノートほど私にとって心安らぐ理解者であり、友達はいなかったかもしれないと思う。きっと読み返してみると、本当に若い取るに足りない足らない悩みなのかもしれないけれど、その当時はそれが毎日のすべてだったのだから、嬉しいことも悩みもその日記帳を反芻することでおさめていったようなところがある。

その習慣は留学時代も続いていて、留学時代は大学ノーとⅠ5冊ほどになっていたから、よほどストレスがたまっていたのかもしれないと思うかもしれないが、タイ語と日本語が混ざっていたからそれぐらいになっている。

東京の大学に進学するまで、10歳につけ始めた日記すべてもっていたんだから我ながら物持ちがいいなぁと感心するのだけれど、留学するまでのものはすべて処分してしまった。

改めて実家を離れるときに、全部読み返したら満足してしまって、新しい自分に東京でなるのだという気持ちもあって勢いよく捨ててしまった。

10歳から18歳までの子供だった自分から卒業する、そんな気分だったのかもしれない。
確かに、そんな思い切りをもって、東京での暮らしが始まった。

今手元にあるのは留学していた頃のものと、帰国した1年分だろうか。そのあとは書かなくなってしまった。外国に住みながら悩む気持ちがそのままあふれていて、痛々しいような、年相応なような。まじめだったのね、と笑いながら読んでしまう。

もうそろそろ、あの日記帳たちとも別れてもいいのかもしれない。

だからだろうか、何かあるとノートを買いたくなる。新しいノートにこれから始まる様々な未来をを詰め込みたい、と思うのだ。

朝の情景

2013-11-25 17.52.42

鶏がきんと高い音でコケコッコーッと鳴き出す。うちには闘鶏が何羽もいたから、それが明け方まだ暗いうちから鳴き出す。
まだくらい窓の向こうからは、2キロほど先にあるお寺の読経がスピーカーから流されているのが聞こえてくる。

隣の部屋から『ハァー』というため息とも痛みを我慢しているとも取れない母の声が聞こえると、階下におりていく音がする。

がらがらと店のシャッターがあげられる。

ウォーイ、という誰かを呼ぶ声が聞こえ出すと、もう外はだいぶ明るくなり始めている。
ピンク色の蚊帳の上にはチンチョ(ヤモリ)の糞がたくさん今日も乗っかっている。それをベッドの上に落とさないように蚊帳を外して身繕いをして階下におりる。

二階建ての二階はチーク材だけれど、ほうきで掃いていると床の隙間から光だけでなく、階下に置かれている商品まで見える。最初はどうしたものかと思ったけれど、少し経てば何とも思わず、そのまま掃いてベランダから階下に落とす。

ベランダに立つとまだ涼しさが感じられ、家の前の通りを知り合いが通りがかる。『ウォーイ』と声がするので、そちらに目をやってにやりと笑うと、眉とあごだけをきゅっとあげて、応答する。

市場に買い出しに出る日には、山ほどの荷物が朝から届けられる。母がぐちゃぐちゃになっているバーツ紙幣を無造作につかんで、ざるにひもをつけて引き上げるだけの簡易式レジにお金を戻す。

そのごたごたにまぎれて、奥の部屋からばあさんが出て来てラオカオという焼酎のようなものの量り売りのふたのあいたのから一杯くすねている。

運転手で一緒に出かけるのクー(叔父)が私を見つけるなり、満面の笑顔で『ご飯食べたか?』とたずねる。
彼はいつだって私にやさしくて、タイ語でいつも会話しているのに、ご飯を食べたかと聞く時はスプーンで何かを書き込むようなジェスチャーをする。

山積みにされた商品をストックしたり並べたりする。
子供たちは早速お菓子の袋をあけて食べだしたりする。店をやっている子供の特権。

10時頃になると、氷屋がくる。何でもスローなこの国で、彼らの仕事はいつも迅速だった。
1貫目だと軽すぎるし、正確に何キロだったかわからないけれど、青年が肩に担いで小走りで大きな氷の固まりを店の前にどさりと置いて、走って車に戻る。

私が最初にできるようになった店の手伝いはこれを10等分にしてアルミの長持ちに入れることだった。さびた大きな糸鋸のようなものでぎりぎりとやる。だいたい割れそうなところまでいくと、近くにある木槌とこれまたさびきったナイフを差し込んでかんかんと叩いて割る。最初はずいぶん手こずった。ゆっくりしているとこの国の温度でどんどん溶ける。

そうやって私がぎりぎりと割った氷は店の脇でお酒を飲む近所の人たちに出されたり、さらに細かく砕かれて袋に入れられて、なみなみと炭酸飲料を注いでそのビニール袋の端にくるくると輪ゴムをつけてストローを差し込み、5バーツだった。

ここまで終わると、朝一段落したな、と思うのだった。

meaw な日常

2013-08-16 18.02.52-2
ここでの暮らしでの、何でもない日常。

その日常を切り取って記録しておきたい。そんな気持ちになりました。

みあ、というのはこの国でのニックネームです。
ご挨拶代わりにこの名前がついたきっかけをお話ししようと思います。

この国の言葉で、みあ、みあおとは猫、猫の鳴き声を指します。

ねこちゃん、と呼ばれているみたいな感じです。

性格や振る舞いがが猫っぽいと人にいわれることも多いのですが、みあになったのは別の理由からでした。

ひょんなことで知り合いになったこの国の自分より若い友達。

あれこれあれこれ、わたしにいって来てくれるのですが、何を言われてもピンとこない。
なのでいつも「いや」「いや」って断っていたようなんです。

この国の言葉でマイアオ、というこの単語をあまりにも連発した私。

結構年下だったからいいたい放題、いやだいやだ、っていってたのかも。

そうすると、『ニャーニャー』と猫が鳴いているみたいだなぁ、ねこちゃん♪ってなり…。
猫ちゃん、みあと呼ばれるようになってずいぶんになります。

実はいろんなことに嫌だっていいたくていえなかった、のかもしれないし。

ということで、猫の日常。
情景の備忘録として。