繰り返し告げられること

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昨年末、「どうしてそれぞれのミッションはとうに終わったことは理解しているのに、二人でのミッションに取りかかろうとしないのか」と言うメッセージが届いた。

ぐうの音もでない明確な宇宙からの突っ込みに「よし、始めなければ」と腰をあげたとたんにいろんな良い流れが来て、順調に進んでいるとかんじていた。

それでもまだ「せっかく唯一無二の使命を与えているのに、集中していない」というメッセージが届く。もうその次元で行動しなさい、望むようにいくのだから、はっきりと望みなさいと何度も言われる。

自分が何かをはき違えているのだろうか、という想いが胸によぎる。

もたらされることを自らの力でとりにいくことを求められているともとれるし、また一方でお前の思うようなことはすべての整うべきことの一部分に過ぎないのだから、それに固執しているお前はおかしい、といわれているという気付きもあった。

「とうとうはじまるからしっかりしなさい」ということをちょっと厳しく言われてるだけなのかもしれない。

新しい環境や人の中でひと月ほどの時間を過ごした中で「まだまだやれるし、もっとやれる」と思えたのは、何よりパートナーが私に日々与えてくれた自信の結果であって、今までのように一人でやりたいとか、一人でもなんとかやれるということを意味している訳ではない。

I からWe に舵をきっていく時に余計なことを考えずに行きなさいとも。

とりとめのない文章で結論というほどの落ちもまだ見つからないのだけれど、書かずにいられなかったのは、何かしら大きく噴火するような、卵の殻が割れるような瞬間が一刻一刻と近づいていることを記録しておくためなのか。

明らかなことは、何度でも繰り返し、伝えられるということ。
驚くほどに明晰な形で。

修正されるまで、時が満ちるまで。

ゆく年来る年 〜収束から快へ〜

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2014年もいよいよ残すところあと数日となりました。

今年一年をいろいろ振り返るこの季節、終わらなかったこと、変化するべくしてはじまったこと、すべてが自然に穏やかに流れつつあるように思います。

この一年は去年にはじまった変化を自分の中に馴染ませて落ち着かせていく、そんなような時間を過ごしたような気がします。「ありうべき」にとらわれず、自分が自分であることや目を瞑っていたことに目を開いてもかわらず穏やかに、自分の求める物や美しいと思う価値観を求めて深め続けられたとも思います。

本当に大切なものはそうたくさんなくて、私はそれを手に入れているのだというところにいつも最後は落ち着ける様になった、とも表現してよいのかもしれません。

もう、不必要に苦しむことも、悲しむことも、辛くなることもなく、あるがまま受け入れて自分は自分の菩薩道を一歩一歩歩み続けること。

愛を示す、褒める、感謝を伝えるという私の大切にしていること、カミサマノイウトオリ、カミサマノナサルヨウニと思いながら生きることがよりしやすい環境を目の前にした年末に、来年の抱負として「快」という字をあげました。

「快」という漢字には
しこりがとれて気持ちよい。さっぱりする。また、その感じ。病気のもとがとれてさっぱりする。病気がよくなって気持ちがよい。 心につかえるものがなくなり、これでさっぱりしたと思う。 もたもたしない。速度がはやい。刃がよくきれるさま。
というのがあるそうです。リンク

どの意味をとっても、今からの私にぴったり添っている感じがして。

自分の心の奥底が継続して感じ続けてられるのは「心地よい」という感覚だという一節からインスピレーションを受けてこの漢字を選びました。

この一年、読者の皆様にはたくさんの気付きやサポートをいろいろな形で頂戴できたこと、改めてこの場で感謝申し上げます。

来年一年が皆様とご家族、大切な愛する方一人一人にとっても健やかで愛に満ちたものであります様にと心よりお祈り申し上げて今年最後のブログ更新とさせていただきます。

来年も日々の気付きを大事にしつつ、思考を昇華させる場としてこのブログを通した対話を続けていこうと思います。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

安心したいなら、細胞(身体)に聞けばいい。

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うちなる怒りがある時は怪我をしやすかったり、大きな仕事の前に「絶対上手く行かない」と思いこむのは、胃が痛くて吐きそうになっている自分がプレッシャーに押しつぶされているからだ。そのレベルで「自分の直感の根拠」を探すのであれば実は誰でも日常的に体験している。

これは何もマイナスのベクトルの時だけじゃない。定期的に読んでいるブログで先日紹介されていたのは、ソウルメイトにであったとたんに病気とか身体の不具合がなおった話がいくつか紹介されていた。まさか人の出会いで病気なおらないでしょう?って思うかもしれないけれど、あながち全く眉唾な話だとも思えない。

ここ数ヶ月、「根拠」の所在を探し続けている。
星の動きや手のしわやカードに依らない知りたいことに与えられた「答え」の根拠はどこにあるんだろうと。

「根拠」の所在がわかると「答え」が正しいかどうか、何が足りないのか、何が過剰なのかも探れるという思いからである。

いろいろなことに「こじつけ」は可能だし、「エクスキューズ」も可能だけれど、そんなまやかしは飲み込もうとしている自分自身が一番よく知っているのだから。

その革新的な答えがみつかった訳ではないけれど、自分の感覚に正直かどうかということが一つあげられるのかもしれないと思っている。それを素直に聞き入れる心の状態であるかどうかも含めて。
何がどう知らされるかなんて、自分を含めて誰にもわからない。
けれど、何かを感じ取ろうといればいるほど「メッセージ」は届けられるはずであって。

自分の身体や感覚以外の何にも頼らないでいることの方が実は難しい中で「根拠」ですら自身の中に見いだせたら、もうなんにも惑うことはないのではないかと思う。

「過去の経験値」を昔はよく(今も時折)根拠にしていた。
でもそれはルーティーンな人生・生活では有効かもしれないけれど、未踏の世界に足を踏み入れるとき、障害にはなっても「根拠」となって自らを安心させ、助けるものでは全くない。

それすら自分から手放して、自分がつながっている大きな存在から「確信」という「根拠」を見いだせたとき、何か新しい所にいけるんじゃないかと思う。

もちろん、その道を共に歩める人がいればもっと心強い。
だけれど、それであっても「確信」は自分の中から見いださないと今までと同じことになってしまう。
それぞれが自分で見いだした「根拠」を照らし合わせてみて「確信」しあえる相手がいたらそれは何より幸せなこと。

そのためには常に心身を清浄に保っていることが何より肝要。

誰かといるということ。

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孤独だといろいろわかっていいよ。みたいな記事を見たときに、一理あるけどなんだかむずがゆい感じがした。

ずっと長い間私は「誰かといるのに孤独」というのを感じてきた。
残酷な淋しさなんだと思う。

一人で長くいるようになると、誰かといるのがおっくうになる。

自分でやった方が早いし楽だし確実だし、がっかりしない。

独立した人間っていうのはそう言うものなのだろうと思う。
わざわざそのメリットを書き出すまでもないぐらいのことなのだ。

そんな人間が誰かといるという選択をするということはよっぽど「その誰か」といることが一人でいるより時間よりも素晴らしいということなのだと思う。

1983年に上映された、「愛と追憶の日々」はシャーリー・マクレーンとジャック・ニコルソンの年を取った二人の恋が一つテーマとして描かれている。

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この物語の中で、恋愛が燃え上がって落ち着きを見せ始める頃、ジャック・ニコルソン演じるギャレットは、彼女に別れを告げる。「二人でいる時間」があまりにも素晴らしすぎたことが、失う不安を感じさせた結果、彼は別れを切り出したのだろうと思う。

あまりにも幸せすぎると、もう昔の「孤独」だった自分に戻れない。
ギャレットはそれが怖かったんだろうと思う。
エマはその気持ちがわかるからこそ、あえて彼を追わない。
彼女の中にも同じ気持ちがあるからこそ、追えなかったのかもしれない。

孤独を深く知るものが誰かといることほど、覚悟が必要なことはない。

白州次郎は正子に彼女にこういう一節をしたためている。

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お写真はこちらから

You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals.

寂しさとかありがちな感情を乗り越えた後に孤独の中に得た平安を捨てて、誰かといるということはその相手が自分にとってこういう存在なんだと思う。

一人では、他の誰かとでは決して行けない領域へ行ける相手。
心身が安らぐからこそ、インスピレーションもアイディアも泉のように涌き出る。
お互いの思考や環境を最適化しあえるバックグラウンドを持ち合わせている。

時間を経て共にいることが習慣や日常に埋没するものではなく、よい陶器などのように使い込まれてより馴染んだものになっていく。

美しく年を取っていける間柄であるということ。
それは男と女であるということでもあるのかもしれない。

誰かといるということが自分という個人を際立たせ、更なる能力を引き出し、自分一人の時間を一層プレシャスにし、一人の時間に得た気付きをまた共有したいと思える相手。

そういう人といるということが孤独を超えて、誰かといるということなのではないかと思う。
自分と対峙し続け、孤独と語り尽くした者のみが得られる、パートナーシップ。

絶対かなわない人は誰ですか。

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お写真はこちらから拝借しました。

ジョージクルーニーってステキだなぁと思っておりました。

コーヒーのCM?のはにかんだ笑顔がかわいいらしいなと。
女性にとっても男性の笑顔って魅力的ですし、その笑顔に惹かれる人がステキだなって思うのは自然だと思います。

あんまり映画スターに関心があるタイプではないのですが、独身貴族っぽいイメージから一転、イギリスの弁護士さん(とはいってもとてもお美しい方)とのゴールインは彼の監督している作品(例えば、Good Night and Good luck)やルーツを考えると当然だろうな、と思います。

婚約者の方とも彼がやっている活動を通じて知り合って恋に落ちたんだそうです。

大人な女性がつい「きゃー」と言いたくなる彼が(笑)、「俺は自分よりもうんと優れた人と結婚するんだ」「彼女と結婚できるボクはとてもラッキーだ」と言ってらっしゃると言う記事を読みました。

自分が「うんと優れた人」と言える人との人生ほど、素晴らしいものってないなぁと思う訳です。
社会にはたくさんいろんな人がいるけれど、自分が「この人にはかなわない」と思える、「うんと優れている」といわば完全降伏してしまえる相手と言うのはそういない訳です。

誰かに対して「かなわない」とか「自分よりすごく優れている」と言えるって、ずっとその人を通して自分は何かを吸収したり、学んでいけるわけですよね。
「自分より優れている」と思う人が自分を選んでくれていると言うことは、自分自身にとってもよい影響というか、自信になるとも思うんです。

きっと、そういう風に自分が思って選ぶ相手なら、偉そうにする訳もないはず。

もうひとつ、あんまり頑張りすぎなくなるんじゃないかなぁ。
だってかなわないものがあると知ることで、肩の力が抜けるから。
(釣り合わせようと思うと、必死に頑張るんでしょうが)

お互いがお互いをリスペクトしあう関係だからこそ、彼はこんな風に晴れやかに言っちゃうんだろうなぁと思いました。

友人でもパートナーでも夫婦であっても。
いつも高めあっていける、自分よりも優れた素晴らしい人と人生を歩めていると思えたら何より幸せなじゃないかって改めて思いました。

絵を描くように、身体を動かすように、誰かを抱きしめるように

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ってお知らせのタイトルなの?って感じですね。笑

前のドメインでやっていたブログを統合しました。

記録は成長の螺旋階段のあがってきた過程を感じるものだと思っています。

止むに止まれぬ気持ちで紡いで来た、その時のありのままの私がここにいます。

親友と昔話をするように、たまにさかのぼってもらえると幸いです。

直観に根拠は必要なのか。

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あるとき、何かふと啓示的にアイディアが浮かんだり、「ここにいっちゃだめ」と思ったりした時、何を根拠とすればいいんだろう。

例えば、占星術。例えば例えばエトセトラ。

人間の心はいつだって根拠を求めてしまう。(私だけかもしれませんけれど)

だからずっと長い間「好き」に理由がないことに納得がいかなくて、「ただ好き」と言うことを理解できずにいた。

いつだって何かを描写して把握していたいなんて、考えてみると驕った考えだし、いくら描写して把握したってそれが正しいとも限らないのに。それを根拠だと思った自分は浅はかだというか、それだけ疑り深く成長したのだろうと思う。

例えば占星術を啓示の根拠にしたら、当然その占星術で説かれた内容を検証するのである。もちろんその逆もある。一般的に「今週のあなたの運勢」なんていうのはこの逆のパターンで、占星術こそが啓示であり、その一週間の自らに起こる出来事がその啓示の検証である。

いずれにしても。
人間はその「確証」を得るためにいつも何かを一般化し、抽象化し、そのノウハウを売り物にして来たのだろうと思う。それは失敗したくない、裏切られたくない、損したくない。何でもいいけれど要するに、「スムーズに信じられないから、信じるためにいろんな理由付けが欲しい」のである。

これって考えてみるとものすごくマイナスのベクトルである。

検証しないで何でも信じるのは愚鈍だと思っている私ですら、これくらいは理解できる。(最近理解しつつある。正直に言うと)

それは、ただ犬が自分のしっぽを追い回しつづける行為に限りなく等しいのではないのだろうか。

自らが信じたい出来事が、事実、まさに自身に起こるその一瞬まで「確証」と言うのは真のレベルではあり得ない。

ということは、その「根拠」をいくら検証しようとしたってそれは「未来」を検証することなのだから。時間軸の概念からいくと起こってないものに確証を与えるための検証なんてあり得ない。

最近、身体と魂の関係について再認識をしているところで、身体からの側面から書こうと思っていたことなのだけれど、身体が一番良く知っている、と言うことなのである。

人間の身体はアンテナのようなものなので、いろんな危険、感情、未来、いろんなことを察知できている、と思う。

身体をよく使いこなせる人は精神のバランスがいい人も多い。
「百獣の王と戦う」武井さんと言う人の語る自分の身体を自分がいかに思い通りに動かせないかと言う話は今までの彼に対する認識、身体に対する認識を180度変えるほど身体と意識の関係を明確にしてもらえた。

最近流行っている氷水チャレンジも、彼はさらりとしないと応えていた。

彼は身体と会話して、きちんとアンテナを働かせているんだと納得した。

直観に検証なんて不可能なのだ。だから「その直観を信じる」ということで望むべき未来を引きよせて、事前に危険を察知していけばいい。

私が愚かだったのは、魂も身体も「そうだ」と言っていることに検証したり根拠をほしがっていたことだろうと思う。

それをたった一人で感じていた訳でもないのに。

直観は自分にしか知らされないサインなのに、それを自分が無視してしまったら誰がそれに気付くと言うのだろう。
そうやって、だされているシグナルを無視して何度失敗したかを思い出してみればいいのだ。自分の「頭」がそう言わせているのに、「サイン」だと見間違えることもある。でもそれは経験値によって、または心に正直に見直すことで十分防がれるのだから。

何よりも自分の直感を信じてやることが、何よりも望むべき結果を導く方法なのかもしれないという結論にたどり着いた。

たどり着いた境地

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17歳の時から、出家したかった。
俗世間からはなれて、ただただ禅定を尽くして自己と対峙していきたかった。

そんな私がそれをやめた理由は、衆生である俗世間にいきる人の悩み苦しみがわからないのであれば、自己と対峙して悟りを得ようが意味がない、もっと世間を知らなくては。経験を積まなくてはと思ったからだった。

気がつけばその頃から、自己と対峙して高めていきたい自分と、誰かの役に立てる、社会がよくなるような存在になりたいと思っている自分を見つける。その当時はもしかしたら現実が辛くて、その世界に逃げ込みたかったのかもしれないけれど。

それから25年ぐらいの時間がたって。
出家をするよりももっと複雑な感情と痛みと喜びを感じた日々。

自我やエゴ、欲がなければ世俗社会で力強くいきていくことは難しいと悟った20代から、本当によく悩み、苦しんで来たと思う。

成長の遅い自分とありうべき姿とフィットしきれない社会の中で、あまり妥協することなく、自分の目指す物を不器用ながらによく追いかけてきたと思う。
理解する人は少なかったし、孤独でなかったと言うと嘘になる。

20代の後半から30代半ばまではいわゆる一般的な世俗社会に馴染めなくて、魂が孤独な時期だった。誰かと一緒にいるのに感じる淋しさはもうイヤだ、それなら一人の方がいい、と決めたのが30代後半だった。

その頃にあった出会いで、自分を捨てて生きることを選択してもつことになる。
それからもう何年だろう。【自分を捨てて生きる、エゴを捨てて生きる】と当初思い始めた時のそれは今振り返れば、「自分を捨てたつもりで、ただ孤独に生きる」ぐらいのものだった。
こんなのは誰のためにもならないただの「淋しい人プレイ」であると今ならよくわかる。

「自分を捨てたつもりで生きる」という虚に気がついてから、ずいぶん七転八倒しながら自分を捨てるということを考えてきた。それは仏教に縛られていたことに気がついてようやく、「カミサマノイウトオリ」というあり方を知る。

仏教にはたくさんのことを助けてもらってきたけれど、一番私が最後に苦しんだのは刹那と未来の関係だった。未来を期待しない、次の瞬間の死に取り付かれていたのかもしれない。
だから未来をも所有することなく手放したい衝動にいつも駆られていた。

この辺りの考察は、現世と言う三昧を味わい尽くすというテクストの中で経験として語りたかったのだけれど。大事においておき過ぎてまだ書けていない。

そんな中、自分の役割ということを考えていると、そこでエゴとの葛藤がでてくる。
役割を終えた後の自分を思うとエゴがでる。

自分の役割を熟知しているが故の手放しができるかどうかというところだったと思う。
頭がおかしくなるほど考えて、自分を追いつめて、罪悪感にも苛まれた。

肚をくくって受け入れる、というのはこっちサイドの話なので、楽なのだ。
自分の身を投げ出す。これが何より苦しい。
どうなるかわからない先に投げ出す。

自分を痛めつけるのと投げ出すのと、どちらが苦しいのか正直わからないほど苦しむのなら、もう苦しむのをやめようと思った。

私の人生はもう私のものであって私のものじゃない。
本当の意味での「カミサマノイウトオリ」ってこういうことなのかもしれないということだ。

自分という存在を神様に捧げるような感じかもしれない。
これを出家と言わずしてなんなのだろうと思うけれど。

私自身として挟持する、引けない何かは限りなく小さくなった。
でもそれ以外はもういい。

崖の上から飛び降りたらこんな気分なんだろうなという気持ちで今毎日を生きている。

言いようもない静けさと安らかさの中に自分があることによって、本来の自分をまた改めて見いだしている。

何度も、ありうべき自分の姿に至ったという錯覚に陥ることがこの数年あったけれど、そのたび「いやまだだった」と思い知らされることが起きる。

でももう崖から飛び降りた私に何が起きるというのか。
今はそんな気分でいる。

役割の終わりという関係の終焉

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人生、出会うべき人には必ず出会う。しかも、一瞬遅からず、早からず。しかし、内に求める心なくば、眼前にその人ありといえども縁は生じず。(森信三)

という言葉は、若い人にも人生に少し疲れた世代にも等しく、人生の出会いの意味を感じさせてくれるものとして魅力的に響くもの。

だけれど同時に、人生にそうやって出会う人すべてを入れておけない。

だから、終焉がある。
役割が終わったとしても、つながっていく関係性はその形をまた変えていく。
親子の関わりなんかはそれにあたるだろうと思う。

縁あって結婚したけれど私のように離婚したあとの方がお互いに理解を示したりすることもある。その関係も役割を終える時期がもう近づいている。

関係というのは相手と自分というに点がないとつながらないからこそ、双方の同意がなく、片方だけでも終わったり始まったりする。

双方の意図が関係ありそうで実はもっとも影響が及ばないからこそ、当たり前に思ったり、大事にできなかったりするのかもしれない。

すぐにこの縁は深くなる、と直観することもあれば、結果そう言うつながりになることもある。

縁(えにし)というものの奥に秘められた役割、いわば業(ごう)についてはもっと思考を深めていくべきことが多いと思う。

土地との縁、人との縁。
切りたいけれど切れない縁、
切りたくないのに切れる縁。

縁あって、前世の業やつながりで今誰かとつながっているのであれば(それがいい関係であれそうでないものであれ)、きちんと全うしたいという思いが日々強くなってきた。

先ほどの森信三の言葉から考えると、自分に与えられていることをきちんと全うすれば、その縁でもたらされた役割も、きちんと全うするだけの時間とうまくやり抜く人間性をその瞬間に備わるようになっていくということなのだろう。

正しいも間違っているもない。
ただその目の前にある縁での役割を全うする。
それが一生のものなのか、ほんのひとときなのか。

誠意を持って人の道に外れないでいけば、その役割の終わりも何もかもちゃんと自然とわかるのではないかなと思う。

年を経ればより賢くなりたいし、軽薄な言葉を聞かされたりしたくない。
自分より年齢も経験も多い人間が軽薄な言葉をいい、不誠実な対応をして表面だけを繕う姿を見ると、よい反面教師としてのお手本を頂戴したことにありがとうございますと礼を言いたくなる。
あなた様のような年よりにはなりたくない、と。

人間としての成長を続ける限り、求めるのは与えられた役割をきちんとこなせる自分。
あらゆることを乗り越えられる自分。
どうしても引けない一点は守れる自分。

えんま様にも神様にも恥ずかしいことはしなかったと報告できる自分。

それは逃げないということだし、肚を決めるということだし、引き受けるということなんだろうと思う。
その縁続くまで。丁寧に。

縁が続くという望外の喜びにいつも寄り添える自分でいたいと思うのだ。
人間は一人生まれて一人死んでいく存在なのだから。

自分にむち打つ。

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私にとって、自分を責めないでいることほど難しいことはない。

人に対する怒りなどより何倍も強い怒りがまっすぐに自分に向くのだから、「自分に腹が立つ」ということを日常的にやっている人ですら、この理解しがたいやり方に理解を示せるかどうかどうかわからない。

私が自分を責めている時は、愚鈍な牛や豚のような家畜をむち打つように、容赦がない。
弱いところを知っているのだから、そこを責め続ける。

えんま様の最後の審判だって、全部見られているその経過含めて問われると言うから、それに近いのかもしれない。

ある時はその決断を、ある時はその愚鈍さを、ある時はその浅はかさを本当に徹底的に責める。

感情や思考を通して自分が自分を責めているにも関わらず、その矛先というか、痛みは身体にでる。
反論すら許されない身体がうめき声を上げる代わりに痛みを感じさせる。

ショックなことがあると胃潰瘍になったりするというのはあながち嘘ではない、私は自分を痛めつけて長くそうやって来た結果の身体の不調にずいぶん悩まされてきたし、前回自分を派手に痛めつけたときにはやはり急な腹痛のあとに出血をしていた。

責めて賢くなるのなら、いくらでも責めればいい。
それが他人であろうと人であろうと。

でも、責めたってその状況が思い通りに変化する訳でも、愚かな自分が急に明晰になる訳ではないのだ。

そうだとしたら自分の心身を痛めつける意味は一体どこにあるのだろうとふと思う。

キリスト教では罪を許してもらうために自らをむち打つという行為をしていたようだけれど。
自分で自分を責めても許しを与えるものと同じ存在が許しを請うべく痛みを負うているなんていうのは、同じような行為だと考えるのであれば欺瞞ではないか、と思ってしまう。

そのような意図すらもたずにただ愚鈍だから、浅はかだからと痛めつけてるという行為には終わりもなければ、達するべきものもない。自らを罰しても痛みだけがあるのでストレス解消にすらならない。

ただただ、魂と身体を滅ぼすだけの行為なのだな、と気付く。

いつだって、魂と思考や感情が同じレベルにないことがこうやって自分を痛めつける原因であることもよくわかってきたけれど、そこでこの歩みをやめてしまえば望むべきところにあがっていけない。

魂と身体を痛めつけることなく、すべてを同じレベルに高めていけるスムーズな過程などないのかもしれない。
とても個人的な作業だからこそ、一人でのたうち回りながら、床を這いずるように自分のエゴや醜い部分と対峙するのだから。

自分を大切にすることと甘やかすことは違う。

どうするのが最善なのかまだ見えないけれど、心身を痛めつけないで済む方法を模索してもいいのかもしれない。
もういい年齢なのだから。笑

周りは自分にそんなに期待していないんだから、という励ましの言葉をもらったことがある。

そのとおり。だからこそ、自分は自分を叱咤激励して期待してやらねば、誰が期待するというのだ。
「お前ならできる」と言ってやり、倒れているところをけり飛ばして立ち上がらせることができるのは自分だから。
何より、そうなりたいのは自分自身でしょう、と肩を抱いて諭してやれる自分でなければ。