習慣と意志、波動。

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毎日を誰かと過ごすなんていうのは何年もなかったことだけれど、一人も楽しんでいたけれど、自分の大切な人に尽くして過ごせる毎日というのは格別なもの。

一人で暮らし始めた頃、放心状態だったのか、暮らしが随分荒んでいた頃があった。そこから立ち直るために私がしたことは、「自分のためにいろんなことをする」ということだった。

「一人だからいいや」と何でも乱雑や怠惰になることがある。それを「たまのご褒美」として楽しむ人もいるし、「それよりも大切なものがあるから」とエクスキューズするのも自分もそう思いがちだったのでわからなくはない。

だけれど、日々の暮らし以上にプライオリティーをもつものが果たしてあるのだろうか。

「ご褒美」としての怠惰さや乱雑さは、心身を荒ませて、運も離れていくのを感じた私は強制的に「習慣化」することにした。ある調査によると人は21日以上継続できると習慣として身に付くと聞いたことがある。意志の問題を超えてやれるようになるのは確かにそれくらいなのかもしれない。

朝の掃除、お祈り、「習慣」と銘打つのには疑問をもつようなことも私は「毎日すること」のリストに入れて、毎日やったものにはチェックを入れた。何十もあったそのリストにすべてチェックがはいると何だか嬉しくて、また明日もやろうと思ったものだ。

私のように毎日会社つとめでない人間にとって、日々のルーティーンで自分を律することが昔から自然だったから、元々性に合っていたとも思う。

そうやって、日々の暮らしを整えることには「習慣」という一般的な意味とは少し違うニュアンスを持っていることを感じてもらえるかと思う。ただ、無意識に毎日行うことも「習慣」なのかもしれない。だけれどそこに「意志」を持って「習慣」とすることの先に意外な世界があるのだ。

三日坊主という言葉があるように、暮らし向きを整えるにはある程度の意志を必要とする。そのためには「何をその習慣をもって得たいのか」というイメージが自然とあるはずで、それがないと「無意識」の習慣に押しつぶされてしまうのだ。

リストを寝る前にチェックする生活を数ヶ月して、私の暮らしは落ち着いてゆき、それと同じように気持ちも随分落ち着いた。生活を整えることがすべてに通じるということを身をもって感じた大切な経験だった。瞑想よりも写経よりもお寺巡りよりも、自分の食べる物を丁寧に作って、よく噛んで食べ、感謝して居住まいを整える以上の心身のベース作りはないとその時に知ることになった。

生活を整える、ということがなぜ心身を整えるのか。
整えるということは、余分なものを処分し、整然とさせること、すなわち浄化なのである。

昔知人で一週間お風呂に入らないでも平気だという人がいたけれど、毎日の暮らしを粗雑にするというのは「におわないから汚くない」といって、日々身体からでる垢や汗をそのままにし、外でまみれた埃をまとったまま眠るのと何ら変わらない。残念ながら「愚鈍」だからそういうことに敏感ではないのだろうと思う。

どうして「愚鈍」でいられるのか。それは「整然」とした「浄化された」状態をしらないからである。

日々風呂に入り、自らの汚れを落とす時、わたくし、人間とはいかに汚れた存在だろうと思う。
そこに善悪、正誤の判断はいらない。「私は今汚れている」という事実だけがある。
自らを汚れていると忌み嫌うのでも、許しを請うのでも、神様に頼るのでもなく、「日々清くあろう」と決める。
「汚れているなら、きれいにすればいい」
ただ、それだけなのである。

さらに身体を動かすということ、イコール身体を整えることも同じ流れ、浄化の一環だということ。

これらの浄化のための日々の習慣は義務でも何でもない。だけれど、感謝をもって行えるようになると荒んだ怠惰な生き様とはかけ離れた毎日を送ることになる。

それは、「清浄であろう」という行動を心身が求め、その習慣こそが快適な状態に変化するからである。
人は快適であることを求める。その快適を阻むものが今まで「快適」だと思い込んでいたものだったりするのだから面白い。いずれにせよ、「不快」なことに人は敏感だから、快適さを追求するとますます清浄さを求める。

そのサイクルから生まれるものは「善」と呼んでも良いのかもしれない、と思う。

毎日毎日の浄化は数年来の汚れすら落としていく。大掃除も必要だけれど、毎日のクリーニングが一番だ。

そうやって日々自分に向かい合うことでの気づきのなんと多いことか。

私は数年来、一人でずっとそうやって暮らして来たけれど、パートナーと一緒にいることで浄化のすごさを改めて知ることになった。浄化しあうということ、浄化した環境と感謝が満ちることでどんどんと良い波動が高まり、強くなっていく。

波動はバイブレーションだから、清浄なものの方が当然、よく伝わる。
良い波動が良い波動をどんどん生み、引きよせ、ハーモニーを奏でる。
こんな美しい調和で宇宙は満たされている。
それを日々体感し、宇宙との調和を実感している。

SNSを使って望む未来を引きよせる。

IMG_3992(写真は借り物です)

Twitter位からはじまって、Facebook、InstagramやPintarestなどなど、スマートフォンやパソコンをあけるとSNSを数珠つなぎに使う人も少なくないと思う。

昔は私もそうだったなと思う。数年前は定期的にSNS疲れに陥って、もうみたくない!みたいな気分になることもあった。
今はリア充なおかげで?あまりSNSに執着もしていないけれど、それにはリア充以外にもうひとつ理由がある。

SNSの使い方を変えたのだ。

SNSをみるのがイヤになっていた頃は「誰かとつながるツール」や「何かを伝えるツール」として使っていた。

実際にあわなくてもつながる、というのは便利な反面、見えない束縛を自分に課すことにもなりうる。
だからイヤになる。

誰が何をしているのか、どこで誰といるのか、何を食べたのか、そんなに興味があるのだろうか。
そこから流れてくる写真は自分の基準で楽しくて美しいのか。

そうでもないことが多いから、面倒にもなる。

それなら、自分のみたい物が常に流れてくるようにアレンジすればいいのだ。

今いる場所にしばりがあっても、オンラインでは世界中どこへでも行ける。ギリシャ、イタリア、オーストリア。山の上でも美しいサンセットを砂浜でみることも。

日本の美しい寺院でも好きなブランドのお洋服でもなんでも。

自分の美意識にあうものや人をフォローしていくとそこには「自分が美しい」と思うものが満ちてくる。

もちろん、大前提として「自分にとっての美しいもの」がわかっていなくてはいけない。

それがわからない人にとっては、タイムラインにそれを映し出すことで自らを知る作業にもなりうるかもしれない。

この国に来る前、一人大きなデスクに座ってSNSのタイムラインから流れてくる美しい景色やモノ達でどれだけ癒されていたかわからない。イメージできる世界が広がり、自分がまるでそこにいるような感覚をもてるようになったことに随分と役立ってくれた。

インスタグラムやピンタレストといった写真、画像が中心のものは、全体でみることによって自分の美しいもの、好きなものに対する全体的な傾向を掴むことも出来る。

自分の意識を包括的に客観視するということはなかなか文字などを通しては難しいので、これまた面白い。

足を踏み入れるには敷居が高いと感じる世界もSNSの中ではもっと気軽なものであっていい。そこでならしていればいつかその現実が自分に近づいてくる。

SNSのタイムラインは自分の思考の反映だと思えばいい。不安が多い人は不安になるようなものをたくさん選んでいるし、仕事や営業用ツールだと思っている人はそのような記事で溢れているだろう。そう思って自分のタイムラインを見ていると、そこには「他人の動向」でもなんでもない「私」がある。

「ありうべき世界」を一番シンプルに具現化できる場所。それが実はSNSのタイムラインではないかと思っていたりする。

未来への生き方と過去

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科学技術がますます進歩し、国の境がなくなっていく。

国の境をまた取り戻そうという動きやたくさんつけた機能が「いらない」となってシンプルさが喜ばれていたりする。

人間や社会はいつだって「より良い状態」という意味での「進化=化けることで進み続けること」を求めている。

人間が地球の上でいろんな仕組みを作り、ものを作りして来た連綿時間の中でこれほど「煮詰まっている」という感じがするのは今だけなのだろうか、新しいパラダイムの模索の中でルネッサンスなんかは生まれて来て大きな風潮へと変化をしたはずなのに、古いものを「焼き直し」としてしか見いだせないのはなぜなのだろう。要するに、なぜ「美しく」ないのか。

パートナーが古い書画や車のサイトを眺めては「今はもうこんなの作れない」と嘆息しながら言う。
当時の作り手の息づかい、卓越した技術、手仕事を彼は常に賞讃し、彼らとともに生きた人のようにそのスタイルと有り様を理解する。

確かに、それらには「美しさ」と「重厚さ」はあっても「軽薄さ」みたいなものはない。

彼らも今の職人や作り手との想いにちがいはないはずだ。だけれど何か決定的なものが違っているような気がする。

若い頃、生まれてくる時代が遅すぎた、と感じることがよくあった私だけれど、何が「早すぎたり、遅すぎた」と感じさせていたのだろうか。

人の営みや作り出すものの「行程」には大きな差はない。それは先進国であれ発展途上国であれ、時代であれ程度の差なのだ。では何が決定的に違うのかというと、「ありうべき世界」というものをもっているのかどうか、なのではないかと思う。

「世界は美しくあるべきだ」という絶対的に揺るがない何か。それは「ユーザーの利便性」だとか「マーケティング」とか「コスト」を絶対的に凌駕するものであるはずで、そういう「グランドプラン」がないと結局は「手先」の技術でしかなくなるのではなかろうかという結論に達する。

国の有り様だって同じことが言える。こうあるべきだ、というグランドプランを提示する北の大国のリーダーが世界中から羨望と注目を浴びているのは、今多くの国が国民のニーズやウォンツ、海外からのそれらに汲汲と振り回されているからこそであろう。

日々の生活を大切に生きること、小さなことに感謝することの大切さと同じ位、大局でのありうべき姿、自分の立ち位置を見つめなければ日常はただの「毎日」となる。

私が十代のとき、留学した国から去る直前、「彼らは生まれて死ぬまでこうやって毎日、一年を暮らして年老いて死んでいくのだ」ということに気がついた。私はそんな風にして生きていくことは出来ない。彼らと自分のちがいを決定的に感じ、別離を決めた瞬間だった。

「進化」という「美」を「グランドプラン」としてもち続けていることが日常の手先指先からこぼれ落ちる技術となりうるのだということを古いものは教えてくれる。

「インスタント」で「手先器用」な世の中にあって、古いものを見直すということは実は過去の再評価を通じて未来すなわち、「現在」の「グランドプラン=ありうべき世界」を模索しているということになる。

美しさというのは何も美醜だけを言うのではなく、その姿勢を指す。
常に「ありうべき世界」を模索してそれを日常ににじませる、そんな日々を送り続けていきたい。
それが未来へ大きな寄与となる一端になると確信しながら。

姿勢と呼吸、あごを引く。

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前回の姿勢にまつわるエントリーは、予想以上に私自身や読んで下さった方からも反響がありました。

姿勢でも何でもそうですが、「気を抜いた時」に意識した時と同じ状態を保てているのかどうかが本当に難しいこと。

意識していられる時間は随分長くなりましたが、日常生活の何気ない一瞬、気が抜けている瞬間に「あご引いてね」とチェックをしてもらうことがまだまだあります。

ミスコンテストにでる方達が24時間泊まり込みで姿勢等のチェックを世界一の美女を作るというイネス・リグロンさんから受けている様子を番組をみたことがあります。
何気ないところ、気を抜いた瞬間にも「緩まない」ことが身体での習慣化では大切なことなのだと自分自身の身体でひしひしと学んでいる最中です。

意識していく過程の中で、身体がこわばったり、身体のゆがみがとれた結果、痛みがでたりという時期を経て、身体のラインが変わりつつあるのを感じます。

あごをひく

“顎を引く”というのはあごを首に近づけることを意味しないのですが、どうしてもあごに力が入ってしまいがち。そのあたりがよくわかるイラストを見つけたのでご紹介しておきます。

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(出典)https://twitter.com/kogoe_0/status/559333785565544451

首を肩のラインに戻してあげることによって、身体の中心に首が乗り、身体の軸をよりいっそう感じられやすくなるのだなぁという感じです。そうすると首からずっと下がっていくと「丹田」があってここに力を入れてすらりとたてばいいという感じ。

下半身はどうにか出来ていた私でしたが、上半身(特に首から上)はなかなか軸が出ていなかったのだ、とここに来ての毎日の所作を直すことでようやくわかってきました。

その結果、丹田や軸を支える筋肉が強化され(インナーマッスルでしょうか)、あごや首周りが随分すっきりしたように思います。身体のラインにメリハリが出てきました。ぜんそくのせいでどうしても変なところに力を入れたり背中を丸めていたのが、徐々に開いた状態をデフォルトとして身体が覚えようとしてくれているのを感じます。

姿勢は所作に続く
所作だけを美しくしようとしても、姿勢がなっていなければちぐはぐなもので、「指先まで美しい所作」を気をつけて過ごしていたのですが、姿勢が変わってくると所作も変わってきます。美しい姿勢と所作は合理的な動きの結果なのだ、という日本古来の武道や茶道といった「道」に通じる気付きを得られたことも改めて感謝です。

年齢を重ねれば重ねる程、しゃんとした背筋で美しい姿勢、所作でいることが元気でいることの秘訣なように思います。覇気がある、凛とした美しさをどこにいてもどんな場所にいても、誰とお目にかかることになっても立ち振る舞いから示していられるようになりたいと思っています。

記憶の上書き〜人生はミルクレープ〜

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この国で一番気に入りのホテルに初めて連れて行ってもらった日、感情の行き違いがあってギスギスした。

そんなことがあったおよそ一年後、私が一人でお茶しているところに「どこにいるの」と彼がメッセージをしてお迎えに来てくれた。

「どうしてここに来たの?」と彼

「記憶の上書きに」と私

良くない思い出や出来事は、小さい頃からいつも「上書き消去」していくように脳みそがなっているのだ、と思っている。

だから、ここに来る度に苦いやり取りを思い出すくらいなら、幸せな思い出を上書きしてしまえばハッピーだという単純な脳みそだともいう。笑

これで、私がお気に入りのホテルにあるエントランスが見える席は、苦い思い出ではなく、彼が颯爽とお迎えに来てくれた幸せな場所という思い出に上書きされた。笑

先日、ちょっとした旅に出た。その目的地は彼が数ヶ月前に一人でいって、オンラインでやり取りをしながら街の雰囲気を伝えてくれた街だった。彼と通信して話していたカフェに二人で座って飲むのは感無量で、その時に話してくれた場所に手をつないで連れて行ってくれるなんて、本当に待ち望んでいた時間が来たなぁと幸せな気分で満ち足りる。

離ればなれで心配しながら道中の彼を思っていた時とは随分と違う境地なのだ。

人間はもの・場所、いろんなものに実に様々な記憶を忍ばせているのだと最近思うことがある。

それはもしかすると、自分では気がつかない程のものなのかもしれない。
心身を開いて受け止めあう相手がいてこそ、そんな記憶も自分が気がつかないうちに、幸せな思い出はそのままに、辛かった思い出はひとつひとつ、上書きさせていければ、とおもう。

それこそ、大切な人に身を委ねることの大切さというか、意味のひとつなのではないかと思う。

自分で事業を始めた頃、よく「人生はミルクレープだ」という喩えを使っていた。その時は、いろんなパーツが重なって、だけれど、クリームという緩衝材があって実はひとつの事象=ケーキにまとまっているという意味で使っていたのだろうとうっすら記憶している。

ミルクレープを食べながら、その時とはまた違う意味で、人生っていうのはミルクレープみたいだなと思う。一枚ずつ食べるテイストと、クリームが挟まって何層にもなっているだけで全く味わいが変わるのは、何もそのクレープの味が違う訳でも何でもない、「重なること」でよりおいしさが増していくのであり、イチゴなんていうイレギュラーな食感と味わいも口に広がる。

ミルクレープにライフを重ねながら、自分の大切な人が自分に身を任せてくれていることの有り難さを思い、彼が私を受け止めてくれていることに感謝をしながら、これからもステキな思い出や時間をミルクレープのように上乗せしていこうとおもうのでした。

姿勢・呼吸・意識付け

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お買い物に出て、歩いている私をパートナーが見かけて「とぼとぼ歩いている」と教えてくれた。

本人は颯爽と歩いているつもりが力の入るところを間違えていたみたい。
「ここに気をつけるといいよ」と定位置にすっと身体を直してくれる。

頭頂からつり上げるように、とモデルさんなんかもよくかいているのを見かけるけれど、そのためには肩甲骨の下あたりにいつも気をはっているといい印象を持つ。
プラス、肩甲骨を少し下げるような感じだと、肩に力が入らない。

当然あごは引いた状態で、首を背筋の上にちゃんと乗せることを意識する。そうすると自然と丹田に力が入るから不思議。

この姿勢にしておくと「胸を張る」というより「胸を開く」というぐらいで、私にはちょうどいい。
30代の持病のせいでどうしても咳で背中を丸めていたのを少しずつ開いていっているよう。

あとは歩く際に膝の後ろ、太腿の後ろに力を入れて歩けばいい。これはピンヒール暮らしが長いので問題なし。笑

とはいえ、歩いている時は自分の意識が行くので気をつけて姿勢を正しているのだけれど、電話をしている時など無意識に何か身体を動かしてると、パートナーがすっとわきに来て胴を広げてくれる。自分がいかに背を丸めて日々生活しているのかを改めて気付かされる。

24時間とは言わないけれど、無意識でも身体に自分の想いと連動して、想う通りに動いてもらうことの大切さと難しさを改めて実感しながら、それを習慣として身につけるように身体に感謝をしながら整えていく日々を今は楽しんでいる。

新しいブログのご紹介 GRACEFUL LIFE STYLE〜How are you enjoy your graceful life?〜

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ここでは日々思索の結果を書き連ねていますが、毎日の暮らしがすべての基本、その基本の一端のあり方を紹介するブログを作りました。

GRACEFUL LIFE STYLE 〜How are you enjoy your graceful life?〜

大切なことはシンプルで丁寧なこと。
愛情と感謝に満ちていること。

それがGraceful Life Style なのだろうという考えに基づいて、暮らし向きのことをかいています。
よろしければぜひご一読ください。

リハビリ。

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リハビリ(Rehabilitation)とは、re(再び、戻す)とhabilis(適した、ふさわしい)からなりたつ言葉。

適した、ふさわしい状態に、(今ある状態から)再度戻すことをいうのだと思う。

数年間、笑っちゃうぐらい表に出なかったし、すべてをミニマムにしていくことを自分に課しているような感じ。どこまでいろいろなものを削ぎ落とせるか、心身共に挑戦しているような時間を過ごしていた。

日本にいようが、別の国にいようが私は「引きこも」って居た気がする。

仮住まいとはいえ新しい環境は私にとってよい「リハビリ」の期間なのだ、と感じる。
日常の家事が自分をいきいきとさせてくれる。
床を拭きながら鼻歌を歌い、値段交渉をして百合の花を一束買う。

行きつけのジムのスタッフが名前を覚えて「次回お待ちしております」と手を振ってくれる。
顔見知りな人たちと挨拶をして世間話をする。

大切な人と笑いあい、語り合う時間がますます上質のものになってくる。
同じ時間を積み重ねていくことほど、関係性を深めていくものはない。
そばにいられるというシンプルな事実にまず最上級の感謝を捧げずにはいられない。
ありとあらゆることが「一緒に居る」ことからはじまっているのだから。

じっと動かないでいることが修行だったかのような感じで、丸1日一歩も外にでないことなんてそう珍しくなかったことが嘘のように毎日あれやこれやとすることが出てくる。些細なことでも一人で「いってみよう」「見に行ってみよう」と思えるようになったのは、自分の中に閉じ込めてあった「好奇心」みたいなものがピッチング練習を始め、「不安」や「臆病さ」が逆にベンチ入りしつつある。初めてこの国にきた時に「どこか違うところに連れて行かれるのではないか」と不安で地図をにらめっこしていた自分が、ここで生活してからは、まだ乗り物で値段交渉したことすらない。「マダムが下さる分で結構です」と言ってくれる。

自分の感じている世界は自分が描くすべてなのだ、と改めて気がつく。

この国が以前いた国よりもカフェ文化が発達しているのもよい理由なのかもしれない。
散歩の途中「あぁ、このお店はここにあったのね、こんなところにステキなお店ができたのね」と、
地理が頭の中でつながる些細な楽しみ。

散歩休憩や書き物するのによい、コーヒーのおいしくて雰囲気が良くて居心地の良いお店がいくつもある。
カフェのスタッフがたわいのない挨拶をして話しかけて来てくれる。

私のいつの間にかかたくなになっていた何かを少しずつほぐしてくれる、これも「日薬」のひとつなのかもしれない。

「ねばならない」から「あることへの喜び」に大きくシフトしたからこそ、すべてが穏やかで感謝に満ちあふれている。だからあらゆるものがナチュラルで当たり前のように感じられる。

「当たり前」にあるということが実は「有り難い≒めったにない」こと、相反するものはひとつなのだ。
この一対のバルブで感謝というエンジンがぐるぐると回る。

身体を動かすことで心が動き、宇宙との連動がますます良くなっていくのを感じる。
鳥がさえずり、蝶が花の周りを飛び交う中、身の回りのものがますます、一層美しいハーモニーを奏でてゆく。

一足飛びに新しい世界に難なく馴染んでゆけるよう、仮棲まいの街は私を上手くリハビリさせてくれている。

「対の法則」幸せの基準

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 幸せにも「対」の関係があると気がついたのは最近のこと。

「幸せにする」「幸せになりたい」と人がいうとき、その幸せの基準はどこにあるのだろう。

「自分が望むべく状態」を幸せと定義したとしても、それが果たして皆同じとは限らない。それは相手を幸せにする、と思っている時だってそういうことになる。

一人で幸せを追求するというのはあまり現実的ではないので、相手のあることとして仮定すると、当然ながら「相手の意向を十二分に叶える」という幸せにする方法と「自分が思う幸せな状況や環境に相手も自分も置かれるようにする」ということがある気がする。

この「幸せの基準」が対であると思ったのは、どちらか片方だけだと上手く行きにくいなぁと思うからである。例えば、相手の意向を叶えたいと思う二人が揃うと、何も決まらない。日々漫然とした「幸せ」を得られるということではいいのかもしれないけれど、幸せを追求するというより幸せに「在る」近い。積極的な「幸せ」ではなく「どちらかというと「満足」に近い。もちろんそれが悪いともいわない。

その一方で「自分が思う幸せな状況・環境を叶えていく」というのは、相手が自分の思うその状況や環境を是としない限り、相手の幸せにはつながらない。双方が「自分が思う幸せな状況や環境」を目指してそれぞれの方向に走れば、「あなたの意向ばかりをきいている」という、幸せというにはほど遠い、不満やるかたない感情が噴出するだろう。一方は、自分の描く幸せに相手も一緒に足を踏み入れれば、幸せになると思って努力しているにも関わらず、である。もちろん、同じ方向を向いて走っていられればよいけれど、ぴたりとその想いが重なるなんて簡単なことではない。

この幸せの定義のちがいに気がついた時、「なんて悲しいことなのだろう」という気持ちが胸に渦巻いた。

家族であれパートナーであれ、相手を幸せにしたい、幸せになりたいという思いが全く別の結果を生むことになるなんて。
どちらのタイプの「幸せの基準」であったとしても、同じタイプの人との幸せの追求には幸せになるということ以外に調整すべきことが多すぎるのだ。

相手の幸せを自分の幸せだと思えるということは何も相手に追従する訳ではない。積極的に幸せにしていくことでもある。でもそれは相手の「幸せ」の形がはっきりあればこそ、又は自分の中で何をすることが相手に幸せを感じてもらえるかをきちんと見極められるか如何(いかん)だろう。

きちんと自分と違うタイプの相手と一緒にいても、どちらかが相手を凌駕することになればまた関係性は変わってしまう。相手の意向を叶えすぎて、相手がダメになるってことは現実に起こることだから。自分の「幸せ」を求める強さにあった相手、相手にあったバランスが必要なのだろうかとも思う。

自分の身近な人がどちらの「幸せ」を望むタイプなのか、自分はどちらなのかを知っておくことは意外と大事なことなのではないか。誰かの願いを叶えることが幸せな人に、何か具体的な幸せの形を求めても困るだろうし、その逆も然りだ。相手が幸せと感じるありようを把握した上で、「幸せ」だと感じられるように歩んでいけることが最善だし、互いが互いをいっそう幸せにしていくという循環を生む。

相手を自分勝手だとか責める前に、果たして自分は、相手は何をもって幸せと感じるのかを見つめてみることはそう悪いことではない。シンプルに「何を幸せと感じるのか」の差異は善でも悪でも是でも非でもない。もちろん性別に帰属するものでもない。

バランスのよく「幸せ」を分かち合い、「幸せ」を「幸せ」と双方が感じられて、感謝できるようになるための一助となるだろう。

Up side Down

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数日前に絶望をしっているものが強い、というはなしをしていて。

絶望を知っているということがどう強いのか、というと「くるりと向きを変えられる」ということなのだと、ある人の著作は教えてくれる。

絶望それは「望みを絶たれた状態」。私が幾度となく感じたし、出来ればもう二度と味わいたくことはない感覚だ。

私にはずっと不思議だったことがある。余りに毎日苦しくて仕方がないのに、「前向き」で「明るい」と思ってくれる周りの人がほとんどだったこと。どれだけ「絶望」をしていたとしても、「希望」と「なすべきこと」を捨てなかったこと。

今思えば、どうやってやり過ごして来たのだろうと思うけれど、それはすなわち「絶望」という底辺にいればこそ、私はいつもそこから抜け出すための何らかの「希望」や「なすべきこと」を結果的に無理矢理握っていたのだろうと思う。

その循環が私を今の状態まで引き上げて生きながらえさせてくれたと言ってもいい。

自分のネイチャーとして自分の魂に感謝しているのは、「絶望」の中で「希望」や「なすべきこと」を決して捨てなかったということだ。自分の魂が純粋に美しく、望ましいものを諦めない魂としてこの世に生まれたことに感謝しても仕切れない。

前にもこのブログで紹介したことがある、「パンドラの箱」のエピソードは私の幼少からの気に入りのエピソードだ。パンドラの箱をあけると様々な悪しきものがごっそりと封印を解いて出てくる。

だけれどその悪しきものが飛び立った後、「私を出して」という声がする。
その声の主に名前を聞くと、「私は希望」そう答えた。

pandora

何度も何度も読んだこの物語が、もしかすると私の深層心理から支えてくれていたのかもしれない、と今は感じる。

そしてそれが正しかったということも。

たくさんの絶望を知った後でしか味わえない甘露があるのなら、それを味わってごらん、と、とっておきの器に入れて目の前に置かれている。

絶望のさなかにあった長い時間、こんな時が来ると想像もできなかった。
だけれど、希望を捨てず、なすべきことをしていたおかげで今がある。

こんな風に生きて来られたのは、私の意思というよりむしろ、魂が「止むに止まれず」私を導いた結果なのだろう、と今は確信している。ということは、私はずっと前から「カミサマノイウトオリ」に、それがいかなる道程であったにせよ、魂に導かれるまま歩いて来ただけなのかもしれない。