浄化、メンテ、感謝というサイクル。

心身をきれいにする方法ってなんだろうと思う。

単純に私はシャワーやお風呂に何度も入ることだと思う。
お塩で体中を洗い流せばなおいい。

何度も水を浴びることでの浄化作用って実はバカにならないと思っている。
外の社会で得たもの、自分の中に芽生えたもの、見聞きしたもの、あらゆるものを落とすつもりで洗い流す。

だから私は一日に何度も浴びる。
浄化というのは告解、許しを請うという行為にも似ている。

清浄な自分でいたいという願いもこもっているものでもある。
清浄な自分というのはいろんな意識に偏らない、曇らない眼でみたものを元に思考し、決断できる自分ということ。

自分の身体を愛しましょうとか、感謝しましょうっていうのもよく最近は耳にする。
自分の臓器に毎日ありがとうって臓器にサマ付けしてFacebookに載せられている方もいる。

私にとって、感謝とか愛っていうのはメンテナンスするということとイコール。
だって大事にしてるから、長持ちさせたいし、ありがとうって思っているから、手をかけてあげたい。
すごく自然に生まれる気持ち。

メンテナンスしないってことは愛がないってこと。身体を愛するとか感謝するっていうのは私にいわせるとクリームが一瓶あればいい。全身をあちこちのばしたり、ねじったりしながら、くまなく塗っていると、何が悪いのかわかる気がする。ありがとうございますと言いながら、塗っていけばいい。メンテナンスと保湿で一石二鳥でもある。

これが習慣化していくっていくこういうことなんだろうと思う。
毎日の中に当たり前に取り込まれていくもの。
その結果自らを強く高めていくもの。
だけれど、継続には意思や目的が伴うもの。
目的や意志がないと継続させられないから、これにはある程度の訓練というか積み重ねを要する。

身体との対話、っていえばいいのだろうか。メンテナンスというのはくまなくみる、という役割も備えているから、そう言う気持ちで楽しめるなら、補うべきものが何かは自然とわかっていくはずだ。自分の身体だから。

体内に入れるものの選択もものすごく大切だとは思うけれども、こと「浄化」という観点と「メンテナンス」をサイクルの中に入れることが結果的に心身の安定だったり、いろんなものから自分を守るためには必要なことなのではないかとも思っている。

それは自分の中に聖なる領域を常に生み出す源泉のような行為でもある。

このように浄化された自分が、カミサマノイウトオリな働きができるようにという祈りをこめて。

一時、滝行にひどく憧れて「滝に打たれたーい」と言っていたこともあるけれど、滝に打たれにいくよりも頻繁に浄化されて鍛えられて、コンビニエンスだけれど悪くないな、と思う。

小さい頃から子供は抱いて育てた方がいいっていうし、スキンシップはすごく大事だと言う意見とその反対の意見があるけれど、私は前者がいいと思う。人の暖かみだとかふれられるという喜びは性別や年齢に関係なく人を癒し、安らかな気分にする。だから女の人はエステにいくし、男の人はお姉さんに触ってもらいにいく。笑

愛する身近な人でなくてもいいぐらいなら、自分で自分にスキンシップしてやれば、他人が満たしてくれるよりは少なくても緩まっていくものがあるだろう。そう言うものが必要だってことを自分で実感するのにこのサイクルは悪くないと思う。

自分自身を大切にする仕方、大切な人を大切にする仕方。
言葉ではなく、「何をするか」って言う行動によるんだって言う気持ちは日に日に強まっていく。
それは自分自身に対してでも同じこと。
誠実に、態度で示すこと。自分自身も大切な人もきちんと思いを理解して応えてくれる。

イチローがすごいっていうけれど、それはみんなこういうことが実行できないからだと思う。
彼はその習慣化を幼い頃にお父さんときちんと積み上げてきた。
だから謙虚だし、行き着く先も知っている。
大切なことはいつだってシンプルだ。

当たり前のことにどれぐらい感謝できるのか。

私にないものをあげつらってみたら、意外とこの世代で性別の世の人が当たり前に「ある」もしくは「いる」と思っているものを所有していない。

それが私の存在意義だ、と気がついたのは先週のことでしかない。笑

こんな私が自由で豊かに見えるのは幻想なんだけれど、取引先の私より何倍もお金持ちだったり、あれこれ満たされている人に「あなたって、いいわね」と言われてみたり「あなたが今着ているお洋服のブランドは」なんて聞かれることも一度や二度ではなかったかもしれない。

当時私はこんなたわいもない質問が示す意味が全く分かっていなかったとおもう。

先週、プールで泳いでいたら、小学生の女の子がビート板をもってやってきた。お母さんが付き添い。
彼女が子供用のプールにいても、一番離れたビーチチェアーでスマホから顔を上げないお母さん。

「おかあさーん」と彼女が何度「何秒潜れたか自慢」をしたくて呼んだって、顔すらあげない。

みていると切なくなった。
つった両足をジャグジーでほぐしている私をちらちらとみてはにかむ。

そうこうしていると、ビート板を大人プールに飛ばしてしまった。
彼女は「しまった!」という表情でお母さんをとっさにみるけど、当然みていない。
私が「ダイジョブよ」といって泳いでとりにいった。

「迷惑かけちゃだめじゃない、ありがとうっていって」とお母さん。
私がそばまで泳いでいっても、もちろん何かいう訳でもなく。
その数日後、Facebookをみていたら「夏休み親子教室」にくるお母さん達へのお願いが書いてあった。
スマホじゃなくって子供たちみててあげて。

想像じゃなくリアルな実感として、
安心して帰って眠れる家がある喜び
抱きしめる子供のいる幸せ
十分とは言わなくても好きなものを食べたり着たりする幸せ、

があるっていう喜びを人はどれくらい感じて日々生きるんだろうかって思う。
何年後のことや数ヶ月後のことを考えたら、今の時代ずっと不安だ。
だけど今この瞬間、感謝できることがどれだけあるだろう。

当たり前は変化のないことにつながって、退屈だったり、義務だと感じて窮屈に感じたり、十分じゃないとか、自分がスポイルされると感じてしまいがちだ。

だから、目の前の「おかあさーん」という子供より携帯に目が向いてしまう。
それは日常からのちょっとしたエスケープっていうエクスキューズなんだろう。それもわからないではない。

目の前より隣の芝生が青く感じることは、人生誰でも一度二度経験したことがあるだろうと思う。
でも、それと目の前や現実を抱きしめないっていうこととは話が違うと思う。
自分の今目の前にあることを生ききらなければ、次の世界もよりよい世界もない。

私はもっていないことがものすごく恥ずかしかったし、惨めだと感じていた時期がずっとある。
みんながもっていると見えるものが欲しくて仕方がなかった時だってある。

でも、欲しいと言ってお店で買えるものでもない。
世の中にはそう言うものがたくさんあるし、今しか味わえないかもしれない。

私は「もっていない自分」をきちんと受け入れられて、「もっていない」からこその人生を歩むようにと道を引かれている。それがようやく受け入れられたとき、それが自分にとっての「当たり前」だからこそ、人生を愛おしく感じられるようになった。

そうすると、周りの人にとっての「当たり前」が今までのような「うらやましい」「私にはないもの」ではなくて、その人たちに与えられたかけがえのないものと映るようになった。

できるならその人たち一人一人に「素晴らしいものをお持ちですね」と言って回りたいぐらい。

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私は彼女達の母親をよく知っている。
下の男の子ができたとき、かけがえのない子供たちをこんな殺伐とした街(私が今いるところ)で育てるなんてとても無理だ。そう言って彼女は夫をこの街に残して大きいお腹を抱えて自分の故郷に戻っていった。都会のいい学校よりも何よりも我が子にとって必要なものが何か。彼女達夫婦はちゃんとよく知っている、二人と話してそう感じた。

時折こんな風に「こんなに大きくなったよ」「休みにどこも行かないなら、うちに来ない?」とメッセージをくれる。

この街の片隅で、プロ意識を持った職人の彼女なら田舎で暮らすよりもよっぽど金銭的には余裕のある暮らしができたろう。でも、彼女の選択はすごく早かったし、迷いがなかった。

彼女は目の前にあるものをしっかりと抱きしめている、と感じる。
だからこそ、一介の客だった私にもそんな思いやりを示せるのだ。

すべて目の前にあるのだから、抱きしめて大切にすればいい。それだけなのだけれど、実は一番難しいことなのかもしれない。オンラインに逃げることなく目の前の現実を抱きしめることこそが、自分を抱きしめて、満たして大切にすることだって気がつけば世界は変わるんだけどね。

自分がもっている、かけがえのないものをもってることに感謝する。
ホントそれだけでいい気がする。ありがとうございますって。毎日。毎日ね。

私はある意味とてもよく知っている。
今ある環境が当たり前でないことも、自分が欲しくて得られなかった、
多くの人が当たり前にもっているものがどれくらいかけがえないものかも。

だからこのプレシャスな人生とか世界に全身全霊で感謝する。
その結果得られるものって、想像以上のもの。

北風と太陽

旅人のコートを脱がせる勝負をした北風と太陽。吹き飛ばすのか、ぬくぬくさせて脱がせるのか対決。

飴とムチ、アメリカのドラマだとGood cop Bad cop(いいおまわりさんと悪いおまわりさん)

人を本人が望むべきところへ到達させる、または思い通りにさせる対決。

脅すのか甘やかすのか。

最近の風潮は「厳しくしてもだめでしょう」ってことが多い気がする。何かにつけてね。
それも間違いではないと思います。

人生で何度か「お願いします」と言われて誰かのことを見守ることがある。
お願いされなくたって、大事な人のことは見守っている。
丁寧に話を聞いて、本人の願いを理解して。

私はどちらかと言うと太陽型の人で、褒めるの大好きだし、人のいいところ見つけるのが得意だ。
教えるという職業がフィットしていたのもそこだと思う。

だけれど、15年以上の指導経験で学んだことが少なからずある。

現状が辛い、こんなに困っていて傷ついて辛いんだというところにどうしてもシンクロする私は、その痛みを取ってあげようとしてしまう。精一杯評価して甘やかしちゃった人が何人もいる。

もちろん最初はよかった。
傷が癒されたような感じで、前向きになって。

さて、そこからは歩みを進めないといけない。
だけれど、進まない。進めない。何かあると古傷がでてくる。
イメージでいうと「私やせたいの」っていいながらポテトチップ食べている太ったオンナみたいになる。

もうこうなると手が付けられない。
万全に理解してくれる私を知っているから、私は許してくれる、と思う訳である。

私はそうやって何人かの人生をある意味だめにしたんじゃないか、と思うことがある。
甘やかすことが愛情じゃない、と言われたって、あまやかしてほしい気持ちを無視できなかった。

甘やかされることで出来上がる信用を土台にしてあがっていくんだという希望をどれくらい持っていればいいのかわからなくなったとき、「私がいたらもうずっとこの私は悪くない、っていう自己肯定とエクスキューズの無限ループにいるな」と確信せざるを得なくなる。

そこで私が立ち去ったあとの彼らの態度も一様に同じだった。
私は許してくれる。
イイコにしてたらまたチャンスをくれる。

もちろんそんなチャンスはない。
だってたくさんあげたもの。
ずっと待ってたもの。あなたがポテチ食べてる間。

そして激しく私を恨んで憎む。
それでもいいと思う。返す刀でいくべき道に行けるなら。
本来のその人になれるのなら。

もっと上手にできたらと思うけれど、人間は弱いし怠けるし。

自分の経験を通しての最善を提供するだけなのだけれど、人よりも多少?しつこく物事をやり続け、考え続ける私のようなやり方とは土台が違うのかもしれないと思うようになり。

見返りなんて欲しいとも、私が思う通りになってほしいとも思わないのですが、ただただ、本人の願う人生を歩めたらと思うばかりで。

ただ、どちらにとっても時間は有限だし、仕事でも家族でもないなら、やはり別れは来る。
その別れが、成長したからもういいね、と巣立ってくれることも、先ほどのような苦い別れを迎えることも。

どちらにせよ、自分の人生に責任を持って生きる。それに尽きるんだろう。

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不思議な夢の話。

夢をみた。

日本だと基本的に出家したら死ぬまで僧侶だ。
異性と何してもお酒飲んでもビジネスしてもいいんだから、還俗する必要がない。

この国にある仏教だと世俗と言う一般社会からはなれて世捨て人になる。だからもういられなくなったら、黄衣が熱くなったとかなんとかいって、還俗の申し出をする。

その夢をみた。
自分の前に昨年なくなった、私が敬愛して止まなかった大僧正がひょっこり前に座っている。
どうも大僧正のクティ(僧坊)のようだ。

思うところありまして、還俗の許可を頂戴しに参りました。
つきましてはその許可と儀式によい日時をいただきたく、お願いしに参りました。と言ってる私。

大僧正がじっと私をみている。
沈黙がじわーんと広がる。
えも言われぬ感じで感慨深い表情の大僧正。

お前は、25パンサーか。ながきに渡りよくやった。
ここで学んだことをこれから活かしていくのだぞ。

じんわりと胸に熱いものが広がる。
還俗しちゃうんだっていう気持ちと、ほめてもらってすごく嬉しいのとがごっちゃになっている。

大僧正に一つ質問をしてもいいですか、と尋ねた。
どうして私はここに来ることに?

お前とこうやって話すことももうあまりなかろう、といって、私の質問に答えてくれた。

それはお前がここに何の縁ももたなかったからだ。
お前が純粋に魂を磨き、本質、すなわち物事のあり様、学ぶべきことを体得するにはお前は独りにならなくてはいけなかった。
それだけに集中するには、お前の生まれた国や縁があるところでは難しかったのだよ。

もうお前は十分やった。
だからもういくべきところにいって結ぶべき縁を結びなさい。

そう言ったあと、大僧正はお見通しだったとようにふふふ、と笑って
いろいろ腑に落ちたろう、と言った。

日にちをみてやるから、改めて来なさいと言われて
いとまごいをするのに頭を下げている黄衣に身をまとっている我が身をみて目が覚めた。

縁がないことがここにいる理由なんていうウルトラCを誰が考えついたのだろうかとおもう。

大僧正が夢にでてきたのははじめてだった。
一度お目にかかりたい。お亡くなりになるまでそう願っていた方に謎解きしてもらえたことがただ、嬉しく、溜飲が下がった。

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選択肢と想像力の関係

日本のシングルマザーの多くが貧困層だ、みたいな記事がFacebookのタイムラインに流れてきていた。
ソースはこちら

私はここで社会が悪いとか、その女性たちの人生にとやかく言いたくてこの話を冒頭にもってきた訳ではない。一つのスパイラルを如実に表していると直感的に思う。
真偽すら確かでないのではとか、積極的選択かもしれないよねと言うシニカルな一言も封印して何がいいたいのか、というと。

慎ましくと思うとさらに貧するのだろうということ。現実はいかに厳しいものであれ、思考や想像力をそのレベルに限定してしまったら、そこから抜け出すことも、別の世界に行くことも難しい。

自分が想像可能であることの100%全部を使い切ることは難しいのだから、自然とその能力の8割9割ぐらいのイメージしかできないとなれば、現実はもっともっと困窮し、厳しさを増す。私はシングルマザーではないけれど、同じような辛さを経験したことはある。先あるイメージを封印することがどれだけ人間を絶望の縁に追いやるのかは体験済だ。

現実よりも大きなイメージをできなければ、その現実とイメージの間にある、あがることが可能な領域にあがるための階段すらないのである。

自分の今ある状況をフィックスされた、固定化されたものとして考える。雇われている人、人の給料で生活する、何だっていい。そこからしか見えない世界がすべてではないと言うことなのだ。

そこで「よい雇われ人」や「人の給料で生活する自分」となっても、「世界中を飛び回る世界企業の社長」の思考にも「長く続いた貴族に嫁いだセレブ」の振る舞いはわからない。

以前異業種からの転職者ですごくいい地位にいらした方が「そんなことをしたことがないからわかりません」とさらり平然とおっしゃったのに目を丸くしたことがあった。
わからないなら想像しないといけないし、知らないなら勉強しなくてはいけない。

今いる世界から抜け出すのにはそれ相当の準備と努力と心づもり、決心が必要なのだ。

一夜にして大富豪やセレブになるのではない。

プリティーウーマンと言う映画があったけれど、あの彼女なんかまさにそうだと思う。

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エレガンスを兼ね備えた、上質が似合う女性にどんどんと変化するためにはそこへイメージをし続けていかなくてはならない。
彼女はリチャード=ギアのおかげであっという間にリアルな現実が一瞬手に入る。だけれど普通は入らない。でもそれを信じて選択していくって言うことなんだと思う。

そうすると段階的に自分がふさわしい人間になっていくのだ。
自分が先、状況はついてくるのだ。

つましくいようと心がけることは、その精神自体は美しいけれど、幸せなのかどうかはわからない。

並んで同じように支給品を受け取るような暮らしはごめんだと思ったら、いろんなことを思うはずだと思うのだ。目の前にあるものだけをつかんでキュウキュウとするのではなく。

通帳に残高があったら、支給は止められるかもしれないけれどどれだけなりたい自分をイメージしたって支給を止められる訳ではない。

イメージと言うのはたがを外してそのつもりになると言うこれもある程度の継続的な努力をしなくては日々の生活、みているテレビ、話している友達との内容に毛の生えたものでしかない。

現実が厳しくて身体も疲れているから何もできないとエクスキューズするぐらいなら、脳みそぐらいは働かせてもいいんじゃないかと思う。

そんな努力ともいえない自分自身への働きが意外にも大きな選択肢を広げることになるかもしれないのだから。

祈りと誓いによって作られる。

誓いと言う言葉が頭に降りてきたので、辞書で引いてみた。

1 神仏に誓うこと。願(がん)。「禁酒禁煙の―を立てる」
2 将来、ある事を必ず成し遂げようと決心または約束すること。「―を交わす」
3 衆生(しゅじょう)を救おうとする仏・菩薩(ぼさつ)の願い。誓願。弘誓(ぐぜい)。

引用もとこちら

そう言えば私も日本で仕事していた時はわりと日常的に誓いを立てていた。
裁判所での仕事の時だ。

良心に則って誠実に真実のみを語ることを誓います、と言う文面だったような気がする。

それを読み上げて署名して仕事をしていた。

いつもありがとうとか感謝してるとか大切にするって相手に伝えていることは、その気持ちや相手に嘘がないという瞬間的なものだけではなく、これからもそうなんだと言う誠意がこもっているように感じる。

だから菩薩の誓願と言う意味も誓いという単語の意味に含まれているのだろうと考えると何となく腑に落ちる。

よい時も苦しい時もある人生や毎日の中で、変わらぬ愛情や感謝を。
状況が好転したら最善を尽くすと言う決意がその言葉に含まれているなら、それを誓いと呼ぶのが一番フィットする。

祈りが日常の無意識をリードしていくように、日々の感謝を通した誓いも最善へ私たちを運んでいってくれる。
そんな確信。

最善を模索する上での思考と行動

ここの所いろいろな気付きがあって、書き残しておきたいことがたくさんあるのですが。

大切にするべき人を大切にするということ。
伝えなくてはいけないことを伝えるということ。

愛情は態度と言葉で。

深い感謝が自分を連れてってくれる境地は、どんな修行よりも甘く有り難い境地だとと思うことがあります。

先日、この一年は、今まで生きた一年の中で一番いろんなことに感謝して、愛してるって愛してる人に言って、また自分も言ってもらえた一年だったと気がつきました。

愛しているっていう言葉が重いから言ってはいけない言葉だったことも、「ごめんなさい」「ありがとう」と言えば済むと思ってと叱られたことも全部通り抜けて、その言葉が本当に華のように開いていくのを感じました。

このさきにあるものこそが最善なのだろうと思います。
精進が辛く苦しいものであった時期は過ぎ、大切にすべき人を大切にと言うことを行動で示してさえいれば、辛いこともいつか最善に向かい、そこに落ち着くのだろうと。

いろいろな気付きの中で、これが最もベーシックで、何度もたどり着いた深い境地です。
だから、またこれからも何度もここに戻ってきては、深めていけたらと思います。

illuminate

レンタルサーバーを移行したかっただけなんだけれど、なんだかぐちゃぐちゃっとやってしまった。
丁寧にとってあったはずのバックアップがうまくアップされない。古いものじゃなくて新しいものに光を当てる〜illuminate〜する日だからいいか、と思って。

ということで違うドメインで再開します。
結果的に、思い入れをもってずっと大事にしていたドメインで再開することになったのはよかったのかも。
このドメインの話もしますね。

今日の空はすごく抜けた明るいよい空です。

何か考えがまとまったときに、見てもらえる人の多いすくないは別として、書いてだす場所がないのがすごく落ち着かないと気がつきました。

仕事用のブログをやっていた時は、考えたことを書けなくてなんだか悶々としていたのも今は昔。