いいところを見つけることと。

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映画をよく見るようになったのは、淀川長治さんがなくなってから。今思うともったいないことをしたのかもしれない。でもまぁ、評論は評論だから。自分の感性でどう見るかが大事とはいえ、彼がどう表現していたのか聞きたかったなと思う。

ちょうどふと手元に落ちてきたように、横尾忠則さんの対談集を土砂降りの午後手に取った。いや、正確には数週間、表紙を眺めていたのだけれど今日、活字を読みだした。満月の日にちょうどいい内容。(謎)文字を読んでいて手がビリビリしない(本だから)のはいい。

その対談集の最初の相手が淀川長治さんだ。二人とも兵庫県出身で共通点が多い。編集の力もあるのだろうけれど淀川さんの飛んでる具合が素晴らしい。あんまり人の話聞かないけれど、相手や物事のことを言語じゃない情報で手にたくさん入れる人。

お二人の会話があまりにもシャーマニックなのがおかしい。

息を吸うようにあの世だとか無意識の世界や魂のことを語れる人をあまり知らない。私はパートナーに出会って初めて、思考がこんなにつながって、近しいスタンドポイントでものを見ている人も世の中にいるのだと驚愕し、また安心した。この対談集も多分そういう一冊なのかもしれない。

閑話休題

そういう部分ではなく、淀川さんの言葉に思い起こさせてもらったこと。

私が教育をしていく中でずっと大切にしていたことだし、生きる上でも大事にしていたことをサラリと彼は冒頭で話していた。人のいいところを真っ先に見つけてそれを伝えるということ。どこかホメようがあるのだという点。笑 例えば、見目も態度も悪くても、立ち方が良かったとか、座り方が良かったとか、ね。ちょっと立ち位置は違うけれど、すごくよくわかる。だけれど、その一方で美しくなかったり、あからさまに手を抜いていたり、愛情がこもっていないとかいう、自分が譲れない何かには決して引かない。

きちんと私はそういう人でいるかしら。
心が荒んで、できていないことはないかしら。
そんな風にはっと思ったのでした。

優しい目線と言葉にある凛とした物腰。

 

 

目線をあげて見えたもの。

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このブログでは何度か姿勢の話を書きました。

姿勢・呼吸・意識付け
姿勢と呼吸、あごを引く

あごを引くことや姿勢によっての変化も含めて実践することによって心に及ぼす影響も少なくないということを身をもって知ることになりました。

丹田に力が入り、肩の力が抜けていくと「姿勢」は良くなるのですが何だかまだ自然な姿勢の美しさとして足りない何かがありました。

私はいままでどちらかと言うといつも伏し目がちでどちらかというと顔が下を向いた、うつむいていたような気がします。日常、仕事で無理にでも上を向いて人と対峙している反動だったのかもしれません。

俯く(うつむく)、は体の状態を示しますが、しょんぼりしていて「うなだれる(項垂れる)」はうなたれる→うなじが垂れる状態から転じて、悲しい時や落ち込んだ時に頭を垂れた状態をさすようになったそうです。語源由来辞典

いくら背筋を伸ばし、あごを引いていてもうなじが垂れてしまっていては元も子もないわけです。

過程、というのはこういうものだなと思います。丹田に力が入っていない時に「うなだれる」ということまでは気がいかなかったり、理解がおよばなかったりするのですから。

コンピューターやスマートフォンといった電子機器をよく使うせいもあって、俯き加減にいることが多いことも影響しています。私も仕事柄10年以上、パソコンとスマートフォンにかじりついて背中を丸めていました。

今はスマートフォンなどの新製品が出ても全く興味もわかなくなり、手元にあるMacBookAirやiPhoneさえ仕事以外では触らないことが多くなりました。つい少し前まで「ガジェットおたく女子」を標榜していたのが嘘のようです。

なので、ステキなカフェに座っていても、ステキな相手が前にいても背中を丸めてスマートフォンをいじっている人達を見ると、「少し前まで自分はこうだったのだな」とよくわかります。

視線を15度上にあげることで、より周りが見え、相手が見え、自分が見えるようになりました。
俯き加減にいた時とは気分も当然変わります。

姿勢や呼吸を整えるということは結果的に目線や気を内に籠らせないでいる最上の状態を常に形成することだという結論に到りました。
気を張ってきちんときれいにいるのではなく、自然で一番リラックスした状態が、結果美しいということでもあります。

内にこもることで曇っていた眼をさらに開いて、美しい有り様を磨いて次にいければと思っています。

習慣と意志、波動。

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毎日を誰かと過ごすなんていうのは何年もなかったことだけれど、一人も楽しんでいたけれど、自分の大切な人に尽くして過ごせる毎日というのは格別なもの。

一人で暮らし始めた頃、放心状態だったのか、暮らしが随分荒んでいた頃があった。そこから立ち直るために私がしたことは、「自分のためにいろんなことをする」ということだった。

「一人だからいいや」と何でも乱雑や怠惰になることがある。それを「たまのご褒美」として楽しむ人もいるし、「それよりも大切なものがあるから」とエクスキューズするのも自分もそう思いがちだったのでわからなくはない。

だけれど、日々の暮らし以上にプライオリティーをもつものが果たしてあるのだろうか。

「ご褒美」としての怠惰さや乱雑さは、心身を荒ませて、運も離れていくのを感じた私は強制的に「習慣化」することにした。ある調査によると人は21日以上継続できると習慣として身に付くと聞いたことがある。意志の問題を超えてやれるようになるのは確かにそれくらいなのかもしれない。

朝の掃除、お祈り、「習慣」と銘打つのには疑問をもつようなことも私は「毎日すること」のリストに入れて、毎日やったものにはチェックを入れた。何十もあったそのリストにすべてチェックがはいると何だか嬉しくて、また明日もやろうと思ったものだ。

私のように毎日会社つとめでない人間にとって、日々のルーティーンで自分を律することが昔から自然だったから、元々性に合っていたとも思う。

そうやって、日々の暮らしを整えることには「習慣」という一般的な意味とは少し違うニュアンスを持っていることを感じてもらえるかと思う。ただ、無意識に毎日行うことも「習慣」なのかもしれない。だけれどそこに「意志」を持って「習慣」とすることの先に意外な世界があるのだ。

三日坊主という言葉があるように、暮らし向きを整えるにはある程度の意志を必要とする。そのためには「何をその習慣をもって得たいのか」というイメージが自然とあるはずで、それがないと「無意識」の習慣に押しつぶされてしまうのだ。

リストを寝る前にチェックする生活を数ヶ月して、私の暮らしは落ち着いてゆき、それと同じように気持ちも随分落ち着いた。生活を整えることがすべてに通じるということを身をもって感じた大切な経験だった。瞑想よりも写経よりもお寺巡りよりも、自分の食べる物を丁寧に作って、よく噛んで食べ、感謝して居住まいを整える以上の心身のベース作りはないとその時に知ることになった。

生活を整える、ということがなぜ心身を整えるのか。
整えるということは、余分なものを処分し、整然とさせること、すなわち浄化なのである。

昔知人で一週間お風呂に入らないでも平気だという人がいたけれど、毎日の暮らしを粗雑にするというのは「におわないから汚くない」といって、日々身体からでる垢や汗をそのままにし、外でまみれた埃をまとったまま眠るのと何ら変わらない。残念ながら「愚鈍」だからそういうことに敏感ではないのだろうと思う。

どうして「愚鈍」でいられるのか。それは「整然」とした「浄化された」状態をしらないからである。

日々風呂に入り、自らの汚れを落とす時、わたくし、人間とはいかに汚れた存在だろうと思う。
そこに善悪、正誤の判断はいらない。「私は今汚れている」という事実だけがある。
自らを汚れていると忌み嫌うのでも、許しを請うのでも、神様に頼るのでもなく、「日々清くあろう」と決める。
「汚れているなら、きれいにすればいい」
ただ、それだけなのである。

さらに身体を動かすということ、イコール身体を整えることも同じ流れ、浄化の一環だということ。

これらの浄化のための日々の習慣は義務でも何でもない。だけれど、感謝をもって行えるようになると荒んだ怠惰な生き様とはかけ離れた毎日を送ることになる。

それは、「清浄であろう」という行動を心身が求め、その習慣こそが快適な状態に変化するからである。
人は快適であることを求める。その快適を阻むものが今まで「快適」だと思い込んでいたものだったりするのだから面白い。いずれにせよ、「不快」なことに人は敏感だから、快適さを追求するとますます清浄さを求める。

そのサイクルから生まれるものは「善」と呼んでも良いのかもしれない、と思う。

毎日毎日の浄化は数年来の汚れすら落としていく。大掃除も必要だけれど、毎日のクリーニングが一番だ。

そうやって日々自分に向かい合うことでの気づきのなんと多いことか。

私は数年来、一人でずっとそうやって暮らして来たけれど、パートナーと一緒にいることで浄化のすごさを改めて知ることになった。浄化しあうということ、浄化した環境と感謝が満ちることでどんどんと良い波動が高まり、強くなっていく。

波動はバイブレーションだから、清浄なものの方が当然、よく伝わる。
良い波動が良い波動をどんどん生み、引きよせ、ハーモニーを奏でる。
こんな美しい調和で宇宙は満たされている。
それを日々体感し、宇宙との調和を実感している。

姿勢と呼吸、あごを引く。

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前回の姿勢にまつわるエントリーは、予想以上に私自身や読んで下さった方からも反響がありました。

姿勢でも何でもそうですが、「気を抜いた時」に意識した時と同じ状態を保てているのかどうかが本当に難しいこと。

意識していられる時間は随分長くなりましたが、日常生活の何気ない一瞬、気が抜けている瞬間に「あご引いてね」とチェックをしてもらうことがまだまだあります。

ミスコンテストにでる方達が24時間泊まり込みで姿勢等のチェックを世界一の美女を作るというイネス・リグロンさんから受けている様子を番組をみたことがあります。
何気ないところ、気を抜いた瞬間にも「緩まない」ことが身体での習慣化では大切なことなのだと自分自身の身体でひしひしと学んでいる最中です。

意識していく過程の中で、身体がこわばったり、身体のゆがみがとれた結果、痛みがでたりという時期を経て、身体のラインが変わりつつあるのを感じます。

あごをひく

“顎を引く”というのはあごを首に近づけることを意味しないのですが、どうしてもあごに力が入ってしまいがち。そのあたりがよくわかるイラストを見つけたのでご紹介しておきます。

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(出典)https://twitter.com/kogoe_0/status/559333785565544451

首を肩のラインに戻してあげることによって、身体の中心に首が乗り、身体の軸をよりいっそう感じられやすくなるのだなぁという感じです。そうすると首からずっと下がっていくと「丹田」があってここに力を入れてすらりとたてばいいという感じ。

下半身はどうにか出来ていた私でしたが、上半身(特に首から上)はなかなか軸が出ていなかったのだ、とここに来ての毎日の所作を直すことでようやくわかってきました。

その結果、丹田や軸を支える筋肉が強化され(インナーマッスルでしょうか)、あごや首周りが随分すっきりしたように思います。身体のラインにメリハリが出てきました。ぜんそくのせいでどうしても変なところに力を入れたり背中を丸めていたのが、徐々に開いた状態をデフォルトとして身体が覚えようとしてくれているのを感じます。

姿勢は所作に続く
所作だけを美しくしようとしても、姿勢がなっていなければちぐはぐなもので、「指先まで美しい所作」を気をつけて過ごしていたのですが、姿勢が変わってくると所作も変わってきます。美しい姿勢と所作は合理的な動きの結果なのだ、という日本古来の武道や茶道といった「道」に通じる気付きを得られたことも改めて感謝です。

年齢を重ねれば重ねる程、しゃんとした背筋で美しい姿勢、所作でいることが元気でいることの秘訣なように思います。覇気がある、凛とした美しさをどこにいてもどんな場所にいても、誰とお目にかかることになっても立ち振る舞いから示していられるようになりたいと思っています。

姿勢・呼吸・意識付け

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お買い物に出て、歩いている私をパートナーが見かけて「とぼとぼ歩いている」と教えてくれた。

本人は颯爽と歩いているつもりが力の入るところを間違えていたみたい。
「ここに気をつけるといいよ」と定位置にすっと身体を直してくれる。

頭頂からつり上げるように、とモデルさんなんかもよくかいているのを見かけるけれど、そのためには肩甲骨の下あたりにいつも気をはっているといい印象を持つ。
プラス、肩甲骨を少し下げるような感じだと、肩に力が入らない。

当然あごは引いた状態で、首を背筋の上にちゃんと乗せることを意識する。そうすると自然と丹田に力が入るから不思議。

この姿勢にしておくと「胸を張る」というより「胸を開く」というぐらいで、私にはちょうどいい。
30代の持病のせいでどうしても咳で背中を丸めていたのを少しずつ開いていっているよう。

あとは歩く際に膝の後ろ、太腿の後ろに力を入れて歩けばいい。これはピンヒール暮らしが長いので問題なし。笑

とはいえ、歩いている時は自分の意識が行くので気をつけて姿勢を正しているのだけれど、電話をしている時など無意識に何か身体を動かしてると、パートナーがすっとわきに来て胴を広げてくれる。自分がいかに背を丸めて日々生活しているのかを改めて気付かされる。

24時間とは言わないけれど、無意識でも身体に自分の想いと連動して、想う通りに動いてもらうことの大切さと難しさを改めて実感しながら、それを習慣として身につけるように身体に感謝をしながら整えていく日々を今は楽しんでいる。

鼻歌とにやにや

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新しい生活がはじまってそろそろひと月。
とはいえ、これも中継地点だから「家」があってほっと落ち着くというような環境とはいえないけれど、新しいページを開けたなという感覚が随所に感じられる。

ひとつは鼻歌を歌うようになった。
昔の私はお掃除していてもよくふんふかと機嫌良く歌だか何だかわからないものを口ずさみながらやっていたものだけれど、めっきりそういうことがなかった。あるときふと自分が鼻歌を歌いながら作業をしているのに気がついて、はっと驚いた。
一体何年ぶりのことだろう、と。

鼻歌が出るって言うのは魂が心から安らいでいるという感じがする。フリーランスでやり出した頃から歌がうたえなくなっていたけれど、もしかしたら歌もうたえるようになるのかもしれない。声は私にとって仕事道具であった一方で、どんどんと使えなくなっていった。「話す声が大きくてよく通る」といわれてた10代なんて今の自分ですら信じられないぐらい。

二つ目はくすくすとよく笑うようになった。昔から笑い上戸だし、営業スマイルも得意だけれど一人でにやにやするタイプではなかった。それがどうだろう。夜中にコーヒーを入れながら思い出し笑いをして一人でにやにやくすくす笑っている。一人でシナモンレーズンベーグルをかじりながら、実は私もこれがお気に入り、と幸せににやけていたりする。

相手がいったことを真に受けて笑い話に出来なかったのも少しは出来るようになった気もする。パートナーと些細なことで大笑いしている時、本当に幸せだなぁと感じる。

まるで人ごとのように「はっと」気がついている自分がいる。些細に見えるこの変化は何から来ているのだろうと考える。
ひとえにずっといつの間にかしまい込んでいた「精神的なゆとり」みたいなものが染み出して来たように思う。

私はどちらかというと生真面目で、ちゃんとしておきたい、といつでも誰に対してでも思っていた部分が強いけれど、そのねじのトルクが適正以上に締め上げられていたのが適正になりつつある。(緩めすぎてもいけないけれど)

思った以上にそれが快適で楽しいことなのだと私の魂が味わいながら、私の身体が自分で呼吸をして、「そうそう、私って確かこういう感じ」って今まさに思い出しつつある。

考えるな、感じろ、身体が教えてくれるから。

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この国の朝日。
夕日も好きだけれど、今から1日がはじまる清々しさは何物にも代え難いなと思います。

私は研究者のなりそこないなので、あれやこれやといろいろな流れを見て事象を分析して考察するのが好きです。そこからひとつの自分にとっての「法則」みたいなものを見つけるのが楽しいのだろうと思います。

残念なことに、この国の分析は正しいのだけれど自分のポジションとこの国の行く末の関係については大はずれでした。「この国のために何か」という思いが客観性を失わせていたのだろうと今ならわかります。そして「この国にとって、私の思うあるべき姿」がこれまた全く違っていた。私がこの国で聞き、思っていたほど、高潔ではなかったということになります。笑

何十年もかけていた分析はそう間違っていないのに、自分にまつわる部分だけがドラスティックに違うというこの客観性の欠如はよく注意しなくてはならないポイントだろうと思います。

「恩返ししなくては」というのは「この国が好きでたまらない」という溢れる何かとは違うものです。もっと脳みそよりです。心からの叫びではないのです。

私は大学で教えていたりしている頃から、「この国が好き」とおっしゃる人たちとの距離感を感じていました。「仕事できている人、その家族」な人とも相通じるものが多かったとは言えません。

好きで好きで、楽しくてたまらない、と言えることがあったろうか、と思います。
正直、なかった様に思います。はじめてバンコクの郊外にあるお家にお世話になったときから、「好きにならなくては」と思っていたと思います。

この国に来たということが、自分の定めの様に思い込んでいたところもなくはなかった気もします。
だからいつだって、この国を見るときには冷静だったのがよいのだろうと思います。仕事柄いろいろなものが見れたことも。この国の工芸品に力を入れたのも、これなら世界に出せるかもしれないと思ったことがきっかけでした。それから気に入る作品を見つけるまでにまた数年の時間を要しましたが。

こういう風に描写していると、自分がいかに自分の「クライテリア」を無視して、無理を押し通していたのだろうと今では滑稽にすら感じます。

とにかく、私はずっと取り付かれる様に「アタマ」で決めてかかって執着していたのだろうなというのが今だとよくわかります。この国から戻ってから、日本に上手く馴染めずにいた私にとって「手持ちの札」を増やすということをせずに、その札に固執していたことも。

あともうひとつ、「仲間」のところに帰りたかったのかもしれません。そんな仲間なんて幻想だと知ったときにはもう後戻りなんて出来なくて、新しい仲間がここなら出来るかも。そういう気持ちであれこれとやっていた気がします。

「それだ」とか「違う」ということを判断するとき、いつもアタマでばかり答えを見つけていました。その答えはいつも正誤に関わらず、答え合わせをするまで「確信」よりも「不安」を引き起こすことが多いのです。だから無理をしたり、極度に引いてしまったりします。そういうことをいつもやってきました。

最近、子供の頃のある思い出を幾度となく思い出します。
小学生にあがるときにランドセルをかいますね。女の子は赤いランドセル。でも私はピンクでした。両親や祖父母が「これがいいならこれにしなさい」と迫る訳です。私は赤いのが欲しくて仕方なかったのに、ピンクを買わないとがっかりさせるのではないかと思ってピンクにしたのを覚えています。みんなと同じではない、ピンクのランドセルが本当に大嫌いでした。笑

小学生のときに、急に中学受験をするという話が持ち上がって塾にも行かせてもらいました。願書を出す直前に、成績がおそらく足りなかったからだと思いますが、「本当に受けるのか」ということを言われて、両親は受けてほしくないのではないかと思って、結局受験をしませんでした。このときは何を選択したら両親に迷惑がかからないだろうとおもいました。結局受けないことも、試験に受からないことも、どちらもあまり褒められたことでないならば、と受験をやめてしまいました。

幼い頃から、不安を感じない日々などなかったのは、そうやって来たからなのだろうとも今ならわかります。普通は両親の言う通りにして安心するのでしょうが、それでも安心できないどころかむしろ不安だったなんて。一筋縄ではいかないものです。

最近、何かを決定するときに腰の後ろあたり、おそらく丹田の裏あたりなのでしょうか「そうだ」とか「違う」というメッセージがはいってきます。「有無を言わせない」という表現がぴったりな強さで、お腹の底に響いてくるのです。大切な人になるであろう方と初めてあったときには、肩甲骨の真ん中あたり(ハートのチャクラ)が痛いほどバタバタとはためきます。

そのメッセージに抗わないことが不安を感じないでいいこと。幼い頃の私はもしかすると、それを知っていたのかもしれない。でも無視し続けていたから、ずっと不安だったのかもしれません。

先日、私は宇宙であるという気付きについての考察をしましたが、まさに自分の身体が宇宙のアンテナとなってあらゆることを知らせてくれる様になるとその正誤、真偽を迷うことがなくなっていきます。
自分の身体に正直に生きる、というのはすなわち宇宙の摂理に正しく生きるということなのだろうと改めて得心するのです。そういう気付きを経て、毎日を過ごすと私を40年以上縛り付けていた不安や恐れが日々少しずつであってもさらさらとほどけて風に舞っていくのを感じます。私の心身が少しずつ自由になっている証の様に。

自分を殻の中に押し込め、さらにぐるぐると縛っていきていた人生から、どんどんと解放されていく、それは決して一朝一夕の短い月日で完成するものではありませんが、次への準備が確実に整いつつあるのを感じます。

身体と焦り

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いかにエレガントでいるかということをよく考えます。

立ち振る舞い、行動、人に対する接し方。

いかに自分のあるべき物に近いのかということであるし、似た存在とであうために必要なことでもあります。

行動のすべての発露は魂と意識(無意識の領域も含めて)身体と思うので、結局いつも考えているテーマに戻ってくるのかもしれません。

このごろ考えているテーマがすべてリンクしていることもあって、何かしらの結論になかなか達することがありません。勉強不足と時間がまだまだ足りないのだろうとおもいます。そういう時間も楽しみつつ。

先週はひどい膀胱炎に悩まされて、深夜は眠れないでトイレを往復していました。お薬を飲まないで治そうと思っていたのが結果的に症状を悪化させたようで、完治を長引かせているようです。アーユルヴェーダによると、膀胱炎というのは孤独や焦燥感の発露として出るのだといいます。

私はどうも自分に疎いので、身体が悲鳴を上げないと気がつかないことがあります。今回もそうだったようです。

出ないものを出したいという気持ちは焦り、そのものです。その時期に到っていないものを早く来てほしいと思うこともまた同じです。私が夜中にずっとトイレに駆け込んでいたのも、毎日の中で自分が知らず知らずに自分の心身に課していたことが心のレベルを超えて身体に現れたのだろうと改めて認識することになりました。

今も書いて残したいことがいくつもありますが、まだその時期ではありません。これもまた思考が「膀胱炎」と同じ症状を訴えているのだろうと思います。

正直、何もない状態のものを出したいと思い、出そうとすることは血がにじむほど苦しいし、余計な力がかかって熱を出します。それが焦り、そのものの正体なのだろうと思います。

でもその苦しさは結果何も出すことが出来ない、純然たる「内的な痛み」以上の何ものでもないのです。
たとえ無理に出せたとしても、それは全くいつもの状態とはかけ離れたものでしかなく、そうなると内だけでなく、外にまでその痛みがおよびます。

正直、この病気がこんなに苦しいものだと知らなかったのですが、おかげでいい内省を得られたなと思います。
薬を飲むべきときには飲まないとということも改めて。苦笑
これもまた、心身のエレガントさを追求するための糧としようと思います。

愛の有り様(ありよう)

2014-09-11 14.14.11

先月だったろうか、自分の目指すありうべき姿と生々しい自分の消えない欲みたいなものが共存できないでいるのを改めて感じて、折り合いを付けるにもどうしようもない気分でいた。

挟持すべきものがなんであるのかを見極めていればいいという結論に達しつつ。

こういう悩みは一人でいきていたり、どこかで隠遁生活を送っていれば全くもって感じる必要もなかったろうと思う。目指す自分があまりにもストイックすぎて、実世界の自分と折り合いがつかない。

そんな中でふと思う。
もうそんな人間的な感覚をもって生きるのはやめよう、と。

苦しむのがイヤならば、そんな感覚まで自分を貶めずにいればよいのだと。
人間として、一人の女として幸せだとかを求めるからそのロジックにはまってしまう。

そういう人生を生きている別な存在として自分を見守り、周りと関わり、大事にしていくことができれば、そのロジックに陥ることはない。

私のありうべき姿と競合することもなく、ただ今生をいききるための方便としての自分の心身だと思えるようになってきた。

カミサマノイウトオリを体現していく生き方には変わりないのだけれど、自分の中ではもう少し積極的な体制である。神様が私に伝えるものを待つのではなく、神様が思うであろうことを行動していく、自分がその存在を体現すると言ってもよいのだと思う。

「愛」ということの深さを思うとき、誰かを心から大切にしたいと思えば思うほど、愛をもって何が許せて許せないのか。自分の譲れないものを挟持することにどれくらいの意味があるのか。別に差し迫った問題があった訳でもないけれど、避けては通れない問題だった。

1日瞑想三昧をしていると「菩薩行」と言う言葉が降りてきた。
のこりの人生を「菩薩行」だと思って、生きていきなさいということだと素直に思えたし、そのスタンスでなら「避けては通れない問題」ですら、問題でなくなっていった。

自分の心に常にあるわだかまりや解決すべき問題が限りなく小さくなくなってゆくのがわかる。

人生を味わい尽くすためにのこりの現世での時間をと思っているけれど、魂は人間社会で多くの人が苦しむようなことに悩み苦しむようなことは望まないらしい。

この境地までいけば、のこりの人生で心の平安を大きく乱されるようなことはないはずだから、ずっとこういう心持ちでいられるように、美しい魂でいたいと思う。
次はそばにいる人にいつも穏やかな気持ちでいてもらえるような鏡のような存在であるように。その輪が少しずつ広がればと思う。

安心したいなら、細胞(身体)に聞けばいい。

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うちなる怒りがある時は怪我をしやすかったり、大きな仕事の前に「絶対上手く行かない」と思いこむのは、胃が痛くて吐きそうになっている自分がプレッシャーに押しつぶされているからだ。そのレベルで「自分の直感の根拠」を探すのであれば実は誰でも日常的に体験している。

これは何もマイナスのベクトルの時だけじゃない。定期的に読んでいるブログで先日紹介されていたのは、ソウルメイトにであったとたんに病気とか身体の不具合がなおった話がいくつか紹介されていた。まさか人の出会いで病気なおらないでしょう?って思うかもしれないけれど、あながち全く眉唾な話だとも思えない。

ここ数ヶ月、「根拠」の所在を探し続けている。
星の動きや手のしわやカードに依らない知りたいことに与えられた「答え」の根拠はどこにあるんだろうと。

「根拠」の所在がわかると「答え」が正しいかどうか、何が足りないのか、何が過剰なのかも探れるという思いからである。

いろいろなことに「こじつけ」は可能だし、「エクスキューズ」も可能だけれど、そんなまやかしは飲み込もうとしている自分自身が一番よく知っているのだから。

その革新的な答えがみつかった訳ではないけれど、自分の感覚に正直かどうかということが一つあげられるのかもしれないと思っている。それを素直に聞き入れる心の状態であるかどうかも含めて。
何がどう知らされるかなんて、自分を含めて誰にもわからない。
けれど、何かを感じ取ろうといればいるほど「メッセージ」は届けられるはずであって。

自分の身体や感覚以外の何にも頼らないでいることの方が実は難しい中で「根拠」ですら自身の中に見いだせたら、もうなんにも惑うことはないのではないかと思う。

「過去の経験値」を昔はよく(今も時折)根拠にしていた。
でもそれはルーティーンな人生・生活では有効かもしれないけれど、未踏の世界に足を踏み入れるとき、障害にはなっても「根拠」となって自らを安心させ、助けるものでは全くない。

それすら自分から手放して、自分がつながっている大きな存在から「確信」という「根拠」を見いだせたとき、何か新しい所にいけるんじゃないかと思う。

もちろん、その道を共に歩める人がいればもっと心強い。
だけれど、それであっても「確信」は自分の中から見いださないと今までと同じことになってしまう。
それぞれが自分で見いだした「根拠」を照らし合わせてみて「確信」しあえる相手がいたらそれは何より幸せなこと。

そのためには常に心身を清浄に保っていることが何より肝要。