気持ちよく過ごすために。三昧のススメ

吉方位にあった水琴窟

どうしてこんなことを体験したり、思いしないといけないの?と思うことって50年も生きているとぼちぼちあるなぁと思います。

面白いことに、これぐらいで最後だろうと思ったらもっと辛いことって底なし沼みたいにあるもんなんですよ。ほほほ。

暮らしが大変なのが収まったら、精神的に追い詰められることもあるでしょうし。皆さん穏やかに暮らしているように見えながら、それぞれ思うことやお辛いこともあると思うんです。もちろんわたくしだってその一人。

もちろん、震災の後に契約がぜーんぶ飛んでしまって、経費すら払ってもらえなくてもう首括る?とか、チャオプラヤ川に身を投げてしまいたくなるような気持ちになったことだってあります。笑 祖父母の介護も両親の会社の倒産も結構大変でしたが、今になって思えば自分にとっては良いお勉強だったと思います。もちろん周りに助けてくださる方がいて、ご迷惑をおかけした方がいることも忘れませんし、感謝しています。

家族であっても人の大変は、他人事なのでちょっと俯瞰して見ていられるところもあるのですが、自分ごとの時は本当にキツーイ時間でございました。

仕事もタイトで精神的に本当に追い詰められたときには身体までおかしくしてしまったおかげで今は普通に暮らせるありがたさも心から痛感しています。

こんな話をすると、資金が底をついてマイナスでもう本当に死にたいと思ってチャオプラヤ川に行った日の洋服と幽霊みたいに真っ青な顔の鏡に映った自分の姿を鮮明に思い出せます。

会社勤めの方には理解できないうような仕事をしているものですから、「自分、大丈夫なん」というようなことを昔の知り合いに数年後に言われたときには立ち直っていましたが、大丈夫じゃない、と思ったら大丈夫じゃなくなるんですよね。

自分の人生をどうにかこうにかやっていくためには、「わたくし、自分でなんとかして参りましたので、今回もなんとかしてまいります」という凛とした姿勢も必要です。「あかんねんー」と泣いてもお金が降ってくるわけでも、契約が元通りになるわけでもありませんからね。

腹を括るしかないのです。心配や辛い気持ちは胸にきます。胸が押されて胃が痛くなったりします。辛いとか嫌やと言っていても状況は変わらないので、「はい、わかりました」と自分と宇宙に言い聞かせるのです。

そして目の前のことを気持ちを入れず、「ジャッジしないで」ただこなしていくのです。暮らしのこと、仕事、どんどんこなす。目の前にきたことをプライオリティー順に片付けていくときに、感情なんて必要ないのです。合理的に進める、早く終わらせることで次にかかれる。

感情に支配されているときは、掃除と片付けが本当に役に立ちます。スーツケースだけで暮らしていても、整理して不必要なものは処分してを頻繁に繰り返していました。それで今の自分にアジャストした環境を整えていけるのです。合わないものを手放すことの大切さ、ですね。そういうものが溜まっていればいるほど、処分が難しいので人に任せないといけなかったり、「ときめくか、ときめかないか」とか言いながら、過去の思い出に浸って進まなーい、なんて言いながらやらないといけないのです。でも本当はね、自分のことだから自分で決めて行動しないと仕方がないんです。

不用品の片付けも、溜まっている仕事や家事、それをやるべきか、どうやってやるのかという判断などは必要です。でも、嫌とか好きとか楽しいとかなんにもいらないのです。
ただ、無心でやる。

その無心の状態こそが修行みたいなもので、三昧の境地というものです。

三昧 さんまい

[名]《(梵)samādhiの音写。三摩提・三摩地とも音写。定・正定・等持などと訳す》

  1.  仏語。心を一つの対象に集中して動揺しない状態。雑念を去り没入することによって、対象が正しくとらえられるとする。

タイ語で瞑想のことを ナンサマーティ、直訳すると座三昧と呼びます。もちろん、座ってゆったりと行う瞑想は本当に心地よく精神を満たしてくれますが、座禅を組んで座らなくともいつだって三昧の境地には辿り着けるものなのです。

わたくしは忙しければ忙しいほど、この三昧の境地に入っていきます。ですので忙しいほど仕事が捗りミスが減るのでありがたいことです。笑

人のことや自分の気持ちに振り回されるより、ずっと気持ちよく毎日を穏やかに暮らすことができているなと思います。

自分の若い頃への反省でもありますが、気持ちにあまり振り回されないで、ちょっと放ったらかしにして、たまにケアしてあげるぐらいで己の感情というのはちょうど良いのかもしれません。自分が無心で淡々と行った作業の山を振り返る余裕が出たときに、「まぁ、あなたよくやったのね」と自分を褒めてやる。それぐらいでちょうどいいのではないでしょうか。作業の山ですよ、丘ぐらいじゃだめ。しっかりとした山を築く意気込みでやれると心もいつしか晴れて不安も道の脇に置いていける気がします。

なんにもたいそうなことはないのです、持ち物は強い決意。ただはじめるだけ。できなかったらTwitterやFacebookにでも宣言しはってもよろしいかも。
それが自分のものになったら強いですよ。
選択も行動も全て自分に返ってきますからね。ご機嫌さんで参りましょう。

新年のご挨拶

2014-06-22 09.34.27

もっとブログをたくさん書けたらと思うのですが、気づきが深く言葉になるのに時間がかかっているような気がしています。

皆さんにとってこの一年はどのような年だったでしょう。

私にとっては幸せだけれど、数年で稀に見る移動の少ない一年でもありました。

フットワーク軽く生きてきた私にとって、想像以上の大変さがありましたが、そんな毎日の暮らしの中で、たくさんのことにも気がつけた一年だったようにもおもいます。

今まで少なくない年数を生きてきて、今年初めて鏡に映る、写真に写る自分の顔をよしと思えるようになってきました。

公私にわたり、ぶれる事なく自分のありうべき「美」に忠実でいる選択をしてこられたからかもしれません。そういう意味で、今までと違う強さや許容するという事を身につけてこられたような気がします。

絶対的な絶望とともに生きる事からようやくきちんと抜け出した、という方が正しいのかもしれません。

今までのようにいつも身を浮かして、いつでも所在なくいた私がでっぷりと居座る事はできませんが、もう少しエレガントにその場にいられるようになったと言っても良いのかもしれません。

そういう安心感が無意識にまで浸透し、何かあっても悠然といられるように少しずつ自分を変えつつあります。

いろいろな推論が確信になる過程の中で、たくさん語り合い、気づきを共有しあい、未来や世界を見通しながら思索を深めてもらえる相手がいてこその変化だとも思います。

宇宙や世界、そして私たち人間の全てを織り成す原則への深い思索と理解がこの一年の私を美しく磨き上げてくれたのだと思う一方、パートナーに尽くすという具体的な行為を通して、その行為から生まれる全ての結果、それを認識し、感謝してくれる事によって、自らが理解され、認められていると感じる事も自分を豊かに美しくしてくれたと思っています。

私自身が良い波動の発信源なのですから、洗練された美しい調べとしての言葉や行動、身近にいる人から遠く離れたところにまでその美しく力のあるエネルギーが届くように、2016年も自らを浄化し、磨き上げながら存在していこうと思います。

 

大切な人をどう呼んでいますか

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日に日にこの常夏の国も風が涼しくて、気持ち過ごしやすい時間が増えてきました。

この、アップデートの少ないブログですが、名前に関するエントリーは継続的にサーチをされて、訪問されています。

「呼び方」については言霊的な要素と関係性や尊敬を波動として伝える要素があると考えています。

付き合い始めて間もない頃、誰も呼んだことがない呼び方で彼を呼びたい、と思ったことがあります。それは今思えば執著のようなものだったのかもしれません。だけれど、それが全くフィットしない、彼にとってはなく、自分が相手を呼ぶに「ふさわしい」かどうかというのがあると感じました。

「呼び捨て」をすることは親しさの象徴ですし、私も憧れましたが、それもできない。私の相手に対する尊敬がそこに含まれないのです。愛情は含まれても尊敬が含まれない、それが私にとってフィットしなかったと言えるのかもしれません。

フィットしないことはやらない、「敬語でなくてもいいんだよ」と言われてもやはりそれも全部は外れない。その理由はシンプルで、相手に対して距離があるのではなく、愛おしく、尊敬している相手に対する自然な対応なのです。それを崩して近しくしてもそれは「無理」を自分にとって通すだけにしかならないのだと。

あらゆるパートナーがそうであるかというとそうではないかもしれません。自らの資質、相手の資質、年齢、立場、多岐にわたる要素が関係して、何が二人の関係で最善か、が導かれているはずです。

名前で呼ぶということが、言霊に届き、その良質な波動が周囲を満たすことの美しさについては触れたと思いますが、ただ名前で呼ぶことが大事なのではなく、そこに込められる「いとしさ」や「敬意」が自分の魂や相手に対する思いにフィットしているかどうかをよく見極めるべきだ、と今回はお伝えしたく思います。

この国では、ニックネームでも呼ばれない、ただ「マダム」と呼ばれることによってそういったプライベートな関わりから一線を画すことで立ち入りすぎない立場を保っています。(私は逆に彼らの名前をきちんと覚えて、声をかけることで、彼らとの関係を良くしています)名前という言霊「コード」の使い方の一つです。

自分の両親を名前で呼ぶ人がいらっしゃるとも聞きますが、こういう考え方と感覚で生きている私には理解し難い部分です。ですが、いろいろな魂の関係があるので、今(現世)は親子でも昔(前世)は共に戦う同士だったから、それがフィットして双方が最善だとするならそれも良いのかもしれません。

自らの内面を表すのがファッションだと考えたときに「色」にこだわるのと同じ様な気がします。

以前の私は自らの内面を隠す様に、ひたすら「黒」を着ていました。「マダム」と呼ばれる様にするのと同じことです。一方、「白」を着た自分は自身を明らかにしている様な感覚がありました。どちらが今フィットしているか、心地よいのかは自分の中ですぐわかります。誰かを呼ぶとき、その呼び方を通じて発せられることは、相手に対する愛情、リスペクト、自らの人間性を周りの人に向けて発信しているのですから、お洋服と変わらない発信力があるのだということです。

そういう心算で、周りの一人一人にフィットした形でエレガントに接していけたらと、年の瀬に改めて感じています。

名前というのはやはりマジカルなものです。だから名前をコロコロ変えるのはどうかしらと思うし、おざなりにするのも良くない。なんにせよ、名前をつけるときはその名前をつけられるものへの未来と思いをたくさん感じて渾身のエネルギーを込められることが必須で、それができないということはときが満ちていないということなのかもしれないとも言えます。

生まれながらについている名前はそうそう変えられませんから、大事に吟味して、その名前に込められたものを精一杯体現できる様な働きをと思います。そのために外部から与えられる無形の力が「名前を呼ぶ」ということなのではないかと思っています。