繰り返し告げられること

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昨年末、「どうしてそれぞれのミッションはとうに終わったことは理解しているのに、二人でのミッションに取りかかろうとしないのか」と言うメッセージが届いた。

ぐうの音もでない明確な宇宙からの突っ込みに「よし、始めなければ」と腰をあげたとたんにいろんな良い流れが来て、順調に進んでいるとかんじていた。

それでもまだ「せっかく唯一無二の使命を与えているのに、集中していない」というメッセージが届く。もうその次元で行動しなさい、望むようにいくのだから、はっきりと望みなさいと何度も言われる。

自分が何かをはき違えているのだろうか、という想いが胸によぎる。

もたらされることを自らの力でとりにいくことを求められているともとれるし、また一方でお前の思うようなことはすべての整うべきことの一部分に過ぎないのだから、それに固執しているお前はおかしい、といわれているという気付きもあった。

「とうとうはじまるからしっかりしなさい」ということをちょっと厳しく言われてるだけなのかもしれない。

新しい環境や人の中でひと月ほどの時間を過ごした中で「まだまだやれるし、もっとやれる」と思えたのは、何よりパートナーが私に日々与えてくれた自信の結果であって、今までのように一人でやりたいとか、一人でもなんとかやれるということを意味している訳ではない。

I からWe に舵をきっていく時に余計なことを考えずに行きなさいとも。

とりとめのない文章で結論というほどの落ちもまだ見つからないのだけれど、書かずにいられなかったのは、何かしら大きく噴火するような、卵の殻が割れるような瞬間が一刻一刻と近づいていることを記録しておくためなのか。

明らかなことは、何度でも繰り返し、伝えられるということ。
驚くほどに明晰な形で。

修正されるまで、時が満ちるまで。

カミサマノイウトオリ、バージョン2.0

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カミサマノイウトオリ(カミサマノナサルヨウニ)、というのは私の行動指針のひとつ。

カミサマノイウトオリ

カミサマノイウトオリにズルはなし

昨日夜、久しぶりにゆっくりパートナーとはなしをしてリラックスしたところで、その日に読んでいたいくつかの記事に同じセンテンスがあることにはたと気がついた。

「私とは「私」=「我、エゴ」意味するのではなく、その後ろにある宇宙そのもの。」

同日に日本語だけではない、4つの媒体から同じ意味の文章を受け取ったのは「このことを考えて受け止めなさい」ということに違いない。

滅私で生きる、すなわち「菩薩行」という人間的な感覚にとらわれずに生きることを思ってから、ずいぶんと思考も削ぎ落とされ、心が穏やかになっているのを感じた。自分が「菩薩行」を実践して生きているということすら、失念するほど身に馴染んで、それが当たり前になっていった。

当然ながら、私が宇宙そのもの、というのは別に自分が神や宇宙、菩薩の存在であるということを意味しているのではない。

では何なのか。
その答えの糸口が私の好きな「六根清浄大祓」の中にある。
六根とは自分の身、体を指し、それを清浄にするための祝詞である。

何を見聞きし、触れようとも心がそれによって穢れることがないという内容に続き、六根清浄だということは、五臓がやすらかであり、それであるが故に天地の神と同根であり、万物の霊と同根であるという箇所がある。

滅私でとらわれることなく、心身清浄に、世の中の愛と平和に生きるということはすなわち、結果それこそが「私」であるという大乗的な世界観でもあるのかもしれない。

私が目にしたそれぞれの文献の文脈ともそれほど大きく外れていないとも感じられる。

私は20年以上この国で小乗、自分が修行して自らを高めることにより、そのたどり着いた領域から世の中を変えられるのであれば、それが最善だと信じて学んで来た。自らがまだ修行の途中で人をすくうことは不遜だという思いがいつも心を占めていた。だから自分を高めなくては。自分をそんな風に追いつめていた。大乗のイメージは簡単に言うと、「南無妙法蓮華経」といえば、みんな天国に行ける、都合がいいものとしか長くとらえられていなかった。

「カミサマノイウトオリ」に生きる、「カミサマノナサルヨウニ」想い、行動するという自己規範はそこから生まれる深い愛と感謝で私の心を穏やかにしなやかに強いものにしてくれた。それこそが「私」なのだという帰結を今教えられることの有り難さとタイミングにいろいろな感情が去来する。

それこそが「大乗」的な観点での「私」でもあるとも併せて気付けたことはまさに、宇宙とのつながり、大いなる存在達が私の後ろにいて、それこそが「私」への福音である。

感謝にも愛にも必要なことは「受け入れる」と「与えること」だと思っている。

「カミサマノイウトオリ」に「カミサマノナサルヨウニ」と思い始めてから今日まで、間違っていなかった、血となり肉となったからこその、2.0へのバージョンアップ。これからも気負いなく、この道を歩んでいく。

愛と受容が生む変化という安らぎ

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多くの宗教の言葉には「言葉が最初である」と記されています。

「心」や「魂」あっての「言葉」だろうという方もおいでですが、体感として「言葉が最初」というのは真実な側面もあると思います。

先にエクスキューズをしておきますと、私はソーシャルメディアでよく見られる、「なんにでも、有り難うございます」を言っちゃうのは若干苦手だというのは前に書きました。「書いたり、言ったりすりゃいいってものではない」とは思っています。

実は今私のいるこの国の人は「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えない人たちが主体です。「こんにちは」って言葉もできて何十年も経てないのだからしょうがありません。「飯食った?」「どこいくん?」が挨拶なのですから。

神仏やご先祖様に毎朝毎夜、1日のお礼やご挨拶をするうちに、ふと思い立ってボスのご先祖様にも挨拶するようになりました。いろいろ言いたいことがあるボスですが、ご先祖様に挨拶するようになると、電話が鳴るたびに「こんにちは、ボス」「有り難うございました」というようになりました。

言いたいことはいっぱいあるので、何年もそんな丁寧さは半減させて接して来たように思います。要するに、気持ちは当初さほど伴っていませんでしたが、そうやってかれに話しかけると心持ちいろいろなことがスムースにいくようになってきました。彼に対する言いたいことは減りはしませんが、私の感情も思いのほか和らいだような気がします。ボスも私に多少優しくなった気もします。言葉は少なくとも自然と柔らかで丁寧になりました。声を荒げることも。

「ありがとう」も「ごめんなさい」も言わないこの国の人たちにそういうことの大切さを教えながら躾けてきましたが、残念ながら、心の持ちようまで変わるところまで確認できなかったのは残念なところではありますが。

「ただ、そういっておけばいい」「言えば幸せになる、幸運が舞い込む」では変わり様もありません。

「褒める」「感謝する」「愛を伝える」これは伝えられている相手からするとただの「言葉」なのかもしれません。ただ、この3つの持つ波動の強さはそれを相手がそれを受容した瞬間(それは発する自分がその言葉自体を受け入れるということも含めて)、「ただの言葉」から「大きな力を携えた波動」になり、「言霊」となって自分と相手の中に入り込んでくるのではないかと感じます。

言葉の持つ音と意味が対となり、それぞれがお互いのパワーを高めあい、開いた魂の中に注ぎ込まれていく。

これが「愛」を伝えるということなんだろうと思います。

このつながりこそが「愛」だろうし、「変化」を生み出すすべての根源なのだろうと言うことを今ひしひしと体感しています。

そのつながりの清涼感はどんな荒んだ都会にいても一瞬に森林の奥にある滝へと連れ出してくれるような、魂の安堵感をもたらすべきものであって、そのためには多少なりとも時間も自らの修練も必要となりましょう。

「言霊」と「数字」の持つ意味の大きさはその変化を体感しきらないとわからないのかもしれないと思います。(私も数字はこれから修練にはいります)
大切なことはこれらはいずれも目的であってはならなくて、最終的に望まれる結果、なのだろうとも思います。だから一人心静かに、決意を持って誰に説明するでもなく、ひたすらに菩薩的な愛を持って行う結果、たどり着くこともあろう場所なのだろうと。

実感を伴わなければ、変化は感じ取れません。

自分にとって大切な人。そこがスタート。続ければ続ける程、世界は愛に満ち、望む世界が間近に近づいて次元変化に対応する心身が培われるのだろうと思っています。

先日のタイムラインで(男女が)融合した原点にゼロ磁場が生じるという話を読みました。役割の違う二つの存在が差異を超えて融合する所こそ、エネルギーの発露。正しく対(陰陽)がくみ合わさった地点には時間軸も差異も存在しない。ただそのものとして「ある」。

こんなに素晴らしいことはないなぁと思います。
信頼と真実の証といっていいのだろうと言われている気がします。

だからこそ、その一対が発するエネルギーは美しい世界の創造に費やされるのです。

おかげさまで。

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おかげは陰(かげ)に御という漢字をつける。

御陽はないけれど、御陰なのだ。

御陰というのは神仏や他人の加護、助力によって何事かをなし得るときにその言葉を使う。日本語って言うのは素晴らしい精神性を表現した言葉だ、なんて美しいのだろうと改めて思う。

陽のあたる自分の実績ではなく、後ろや下の部分で見えない尽力をしてくれ、成功に導いてくれた存在がなんにでもある。それを表にだすというか「その尽力、加護により」何事かを成し遂げられたということを示す。

何かと言えば、自分がなし得た実績や成功をショウオフしてしまうしてしまいがち、望んでいた成果ならましてやそうであろう。
優れた経営者が立派であると言われることの由縁はその「御陰」の存在をよく知ることである。自ら一人では何もなし得なかったということをよく知るからこその「御陰さま」なのである。

もちろん、陰の存在が自分でショウオフすることもこの世の中少なくない。だけれども、そこはやはり奥ゆかしくあるのが日本人のあるべき精神性だとも思う。

あなた様のお力あってのこの成果ですと腰低く頭低く、宇宙にもカミサマにも回りにも感謝を示し、「自分がなし得た」ということよりも「御陰」としてサポートして下さった宇宙や神仏や周りの協力を忘れずにまず言及すると言うこと。

何故御陽という言葉がないのか、放っておいても「成功」という形で注目が集まるからだ。主役はあくまで自分。でもそこにあぐらをかくといつの間にか「御陰」が姿を消して成功も永続していかないであろう。バランスの問題。「自分がやった」と言わなくても自分がなし得たことは自分がよく知っている。だからこそ、いつも「御陰さまで」このような成果を得られたと言えることが私にとっては一番自分の心根にフィットしたものとも言える。

人は一人で生きている訳でも独立独歩、何かをなし得る訳ではないのだから。

滅私でカミサマノイウトオリ、カミサマノスルヨウニ、自らの立ち振る舞いをと思うからこそ、この「御陰」という言葉の深さが改めて胸に深まってくる。

行動という証

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どちらかと言うと言葉をとても大切にしてきた今までの人生だけれど、実は言葉とあわせて自分が意識的に行うことで意味をもたせることをしてきた。

言葉ばかりに意味や価値をおいてがっかりすることは数限りなくあった。
もしかしたら、自分も無意識にそうだったのかもしれない。

こんな風に行動と言葉で表してもそれを理解してもらえない相手はともかく。

何にありがとうと感謝しているのかは言葉でないと伝えられない。
愛しているならそれを相手に言葉以外でどうしたら伝わるのか。
親子でも夫婦でもパートナーに幸せになってもらうように自分が行動することで結果的に自分の愛や感謝を伝えたいと思うと、表現の方法は無限にあるような気がする。

感謝しているとおりに触れて伝えるたび、相手が自分にとっていかに大切か、相手が自分に与えているかけがえのない影響を再認識する。言葉で伝えることのもう一つのよい影響なのだろうと思う。

学生時代に憧れの人に大学4年間手紙を書き続けて、その人と結婚した友人がいた。彼が送ったのは「手紙」と言う言葉なんだけれど、毎日のように手紙を書き続けると言う行為が彼女の心に届いたのだろうと思う。彼の手紙は「言葉」であり「行動」でもあったのだ。

もちろん、それを相手が「愛されている」と受け取る感性というか共通言語を持ち合わせていなくては何をしても意味はないのかもしれないけれど。

身体を日々動かすことで身体が締まって筋肉がついていくのと同じように、行動という愛情なり思いを伝えるやり方がどんどんと自分や相手の心や暮らしに浸透していくことが信頼を形作っていくのではないかとようやくわかるようになってきた。

今までの一方通行な愛や生き方ではわからなかったことでもある。

改めて誰かを大事にしたり、愛すると言うのは広義の意味での人類愛をのぞいて、愛とはそれほどたくさんの人に深く与えられるものではないのではないと気がつく。

もちろん、子供への愛とかそういうのはまた違う次元なのだろうけれど。
本質はそう変わらないのかな、とも思う。

感謝や愛情にまつわる価値観が同じであることが信頼を築き上げるための基本だから。

言葉が結果嘘になったり、叶わないで終わることがある。
それを無為に責められることも、自分で悔しく思うこともあろう。
行動は相手がそれをどう読み取るかは別として、自らの思いの発露の証としては嘘偽りのないものであるはず。私は、その一点に大きな価値を置いている。

役割の終わりという関係の終焉

2014-08-05 13.52.15

人生、出会うべき人には必ず出会う。しかも、一瞬遅からず、早からず。しかし、内に求める心なくば、眼前にその人ありといえども縁は生じず。(森信三)

という言葉は、若い人にも人生に少し疲れた世代にも等しく、人生の出会いの意味を感じさせてくれるものとして魅力的に響くもの。

だけれど同時に、人生にそうやって出会う人すべてを入れておけない。

だから、終焉がある。
役割が終わったとしても、つながっていく関係性はその形をまた変えていく。
親子の関わりなんかはそれにあたるだろうと思う。

縁あって結婚したけれど私のように離婚したあとの方がお互いに理解を示したりすることもある。その関係も役割を終える時期がもう近づいている。

関係というのは相手と自分というに点がないとつながらないからこそ、双方の同意がなく、片方だけでも終わったり始まったりする。

双方の意図が関係ありそうで実はもっとも影響が及ばないからこそ、当たり前に思ったり、大事にできなかったりするのかもしれない。

すぐにこの縁は深くなる、と直観することもあれば、結果そう言うつながりになることもある。

縁(えにし)というものの奥に秘められた役割、いわば業(ごう)についてはもっと思考を深めていくべきことが多いと思う。

土地との縁、人との縁。
切りたいけれど切れない縁、
切りたくないのに切れる縁。

縁あって、前世の業やつながりで今誰かとつながっているのであれば(それがいい関係であれそうでないものであれ)、きちんと全うしたいという思いが日々強くなってきた。

先ほどの森信三の言葉から考えると、自分に与えられていることをきちんと全うすれば、その縁でもたらされた役割も、きちんと全うするだけの時間とうまくやり抜く人間性をその瞬間に備わるようになっていくということなのだろう。

正しいも間違っているもない。
ただその目の前にある縁での役割を全うする。
それが一生のものなのか、ほんのひとときなのか。

誠意を持って人の道に外れないでいけば、その役割の終わりも何もかもちゃんと自然とわかるのではないかなと思う。

年を経ればより賢くなりたいし、軽薄な言葉を聞かされたりしたくない。
自分より年齢も経験も多い人間が軽薄な言葉をいい、不誠実な対応をして表面だけを繕う姿を見ると、よい反面教師としてのお手本を頂戴したことにありがとうございますと礼を言いたくなる。
あなた様のような年よりにはなりたくない、と。

人間としての成長を続ける限り、求めるのは与えられた役割をきちんとこなせる自分。
あらゆることを乗り越えられる自分。
どうしても引けない一点は守れる自分。

えんま様にも神様にも恥ずかしいことはしなかったと報告できる自分。

それは逃げないということだし、肚を決めるということだし、引き受けるということなんだろうと思う。
その縁続くまで。丁寧に。

縁が続くという望外の喜びにいつも寄り添える自分でいたいと思うのだ。
人間は一人生まれて一人死んでいく存在なのだから。

自分にむち打つ。

2014-08-12 18.05.55

私にとって、自分を責めないでいることほど難しいことはない。

人に対する怒りなどより何倍も強い怒りがまっすぐに自分に向くのだから、「自分に腹が立つ」ということを日常的にやっている人ですら、この理解しがたいやり方に理解を示せるかどうかどうかわからない。

私が自分を責めている時は、愚鈍な牛や豚のような家畜をむち打つように、容赦がない。
弱いところを知っているのだから、そこを責め続ける。

えんま様の最後の審判だって、全部見られているその経過含めて問われると言うから、それに近いのかもしれない。

ある時はその決断を、ある時はその愚鈍さを、ある時はその浅はかさを本当に徹底的に責める。

感情や思考を通して自分が自分を責めているにも関わらず、その矛先というか、痛みは身体にでる。
反論すら許されない身体がうめき声を上げる代わりに痛みを感じさせる。

ショックなことがあると胃潰瘍になったりするというのはあながち嘘ではない、私は自分を痛めつけて長くそうやって来た結果の身体の不調にずいぶん悩まされてきたし、前回自分を派手に痛めつけたときにはやはり急な腹痛のあとに出血をしていた。

責めて賢くなるのなら、いくらでも責めればいい。
それが他人であろうと人であろうと。

でも、責めたってその状況が思い通りに変化する訳でも、愚かな自分が急に明晰になる訳ではないのだ。

そうだとしたら自分の心身を痛めつける意味は一体どこにあるのだろうとふと思う。

キリスト教では罪を許してもらうために自らをむち打つという行為をしていたようだけれど。
自分で自分を責めても許しを与えるものと同じ存在が許しを請うべく痛みを負うているなんていうのは、同じような行為だと考えるのであれば欺瞞ではないか、と思ってしまう。

そのような意図すらもたずにただ愚鈍だから、浅はかだからと痛めつけてるという行為には終わりもなければ、達するべきものもない。自らを罰しても痛みだけがあるのでストレス解消にすらならない。

ただただ、魂と身体を滅ぼすだけの行為なのだな、と気付く。

いつだって、魂と思考や感情が同じレベルにないことがこうやって自分を痛めつける原因であることもよくわかってきたけれど、そこでこの歩みをやめてしまえば望むべきところにあがっていけない。

魂と身体を痛めつけることなく、すべてを同じレベルに高めていけるスムーズな過程などないのかもしれない。
とても個人的な作業だからこそ、一人でのたうち回りながら、床を這いずるように自分のエゴや醜い部分と対峙するのだから。

自分を大切にすることと甘やかすことは違う。

どうするのが最善なのかまだ見えないけれど、心身を痛めつけないで済む方法を模索してもいいのかもしれない。
もういい年齢なのだから。笑

周りは自分にそんなに期待していないんだから、という励ましの言葉をもらったことがある。

そのとおり。だからこそ、自分は自分を叱咤激励して期待してやらねば、誰が期待するというのだ。
「お前ならできる」と言ってやり、倒れているところをけり飛ばして立ち上がらせることができるのは自分だから。
何より、そうなりたいのは自分自身でしょう、と肩を抱いて諭してやれる自分でなければ。

使われなかった名前の話

2012-04-24 14.21.46

このドメインになっている名前の話をしておこうと思います。

 hongsarot หงสรถ とこの国の言葉で書かれるこの名前は、神様の乗り物、と言う意味です。

どんな宗教でも神様が乗り物として従える動物がいますが、hongと言うのはこの国の言葉では白鳥や鳳凰を意味します。

自分の生き方をドラスティックに変える時の覚悟として、自分を滅して、神様の意思を反映できる、よい乗り物になろうと思ったのでした。

それが始まりだったように思います。
あんまり大事にしすぎた結果、会社の名前にもなんにも使えないまま、今に至ります。

この国との縁やこれからのことを考えたときに、今後この大切にしすぎたこの名前を会社の名前等にもってくることはないと思います。この写真を撮ったり、名前を辞書で一生懸命考えたあの頃とはずいぶん状況も変わりました。

それでも、このhongsarot という言葉と出会えたことがすべてのスタートだったように思います。
「カミサマノイウトオリ」と言う私の今の生き方の指針が最初に浮かび上がったのもこの単語のおかげでした。

それから数年、この単語について、この単語の示すありようについて自分なりの思考を深めてきたと同時に、この単語は私にとって、自分を顧みるための基準だったように思います。神様に使えるにふさわしい身であるのかどうなのか。恥じない行いをしているのか。

ここに来て、もう少し大きい世界で飛びなさい、そう言ってもう一度空に解き放たれたような気持ちでいます。
もちろん、役割が変わる訳ではないのですけれど。

FacebookをみてもTwitterをみても、昔の人や偉い人のいった言葉でタイムラインは溢れています。
引用に次ぐ引用で、それが偶発的に琴線に触れる楽しさももちろん私も知っているのですが。

私がここに書くことは、もう少し違ったことを目指しています。
かといって、目の前にある日常の喜怒哀楽をただ分析することも私はかけないです。

自分の役割っていうものがあると言う前提で、その役割にそって理解したことを少し抽象化して一般化とまではいかなくても、多少なりとも自分を捜し、生き方を探し、未来を見つめている人なら、世界のありようやいく末のありうべき姿を希求する人ならば、感じてもらえるかもしれない何かを綴ることが、この「神様の乗り物」というドメインにふさわしいのではないかなとも思っています。

自分の思考を通しての気付きだけが真の気付きなので、私のこの文章も私にとっての気付きでしかないのです。
本来は。

ですが先日、うちの女の子が私のあるエントリーをみて「泣けました」とメッセージをくれました。

自分がふと通り過ぎる出来事をもう一度引きよせて感じ直すことができたのだと思います。
そんな風に誰かの琴線に私の気付きが触れるなら、それはよきものが神様の乗り物に乗ってその人の元にいってくれたと言うことに他ならない気がして。

私にとって大切な単語を冠したドメインをここで活かそうと決めた訳です。

私の役割、気付きを通して、あなたのこの世での役割にいい影響やよい気付きがありますように。

孤独なときにこのブログをみて、独りじゃないと思ってもらえたらいいなと思っています。

当たり前のことにどれぐらい感謝できるのか。

私にないものをあげつらってみたら、意外とこの世代で性別の世の人が当たり前に「ある」もしくは「いる」と思っているものを所有していない。

それが私の存在意義だ、と気がついたのは先週のことでしかない。笑

こんな私が自由で豊かに見えるのは幻想なんだけれど、取引先の私より何倍もお金持ちだったり、あれこれ満たされている人に「あなたって、いいわね」と言われてみたり「あなたが今着ているお洋服のブランドは」なんて聞かれることも一度や二度ではなかったかもしれない。

当時私はこんなたわいもない質問が示す意味が全く分かっていなかったとおもう。

先週、プールで泳いでいたら、小学生の女の子がビート板をもってやってきた。お母さんが付き添い。
彼女が子供用のプールにいても、一番離れたビーチチェアーでスマホから顔を上げないお母さん。

「おかあさーん」と彼女が何度「何秒潜れたか自慢」をしたくて呼んだって、顔すらあげない。

みていると切なくなった。
つった両足をジャグジーでほぐしている私をちらちらとみてはにかむ。

そうこうしていると、ビート板を大人プールに飛ばしてしまった。
彼女は「しまった!」という表情でお母さんをとっさにみるけど、当然みていない。
私が「ダイジョブよ」といって泳いでとりにいった。

「迷惑かけちゃだめじゃない、ありがとうっていって」とお母さん。
私がそばまで泳いでいっても、もちろん何かいう訳でもなく。
その数日後、Facebookをみていたら「夏休み親子教室」にくるお母さん達へのお願いが書いてあった。
スマホじゃなくって子供たちみててあげて。

想像じゃなくリアルな実感として、
安心して帰って眠れる家がある喜び
抱きしめる子供のいる幸せ
十分とは言わなくても好きなものを食べたり着たりする幸せ、

があるっていう喜びを人はどれくらい感じて日々生きるんだろうかって思う。
何年後のことや数ヶ月後のことを考えたら、今の時代ずっと不安だ。
だけど今この瞬間、感謝できることがどれだけあるだろう。

当たり前は変化のないことにつながって、退屈だったり、義務だと感じて窮屈に感じたり、十分じゃないとか、自分がスポイルされると感じてしまいがちだ。

だから、目の前の「おかあさーん」という子供より携帯に目が向いてしまう。
それは日常からのちょっとしたエスケープっていうエクスキューズなんだろう。それもわからないではない。

目の前より隣の芝生が青く感じることは、人生誰でも一度二度経験したことがあるだろうと思う。
でも、それと目の前や現実を抱きしめないっていうこととは話が違うと思う。
自分の今目の前にあることを生ききらなければ、次の世界もよりよい世界もない。

私はもっていないことがものすごく恥ずかしかったし、惨めだと感じていた時期がずっとある。
みんながもっていると見えるものが欲しくて仕方がなかった時だってある。

でも、欲しいと言ってお店で買えるものでもない。
世の中にはそう言うものがたくさんあるし、今しか味わえないかもしれない。

私は「もっていない自分」をきちんと受け入れられて、「もっていない」からこその人生を歩むようにと道を引かれている。それがようやく受け入れられたとき、それが自分にとっての「当たり前」だからこそ、人生を愛おしく感じられるようになった。

そうすると、周りの人にとっての「当たり前」が今までのような「うらやましい」「私にはないもの」ではなくて、その人たちに与えられたかけがえのないものと映るようになった。

できるならその人たち一人一人に「素晴らしいものをお持ちですね」と言って回りたいぐらい。

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私は彼女達の母親をよく知っている。
下の男の子ができたとき、かけがえのない子供たちをこんな殺伐とした街(私が今いるところ)で育てるなんてとても無理だ。そう言って彼女は夫をこの街に残して大きいお腹を抱えて自分の故郷に戻っていった。都会のいい学校よりも何よりも我が子にとって必要なものが何か。彼女達夫婦はちゃんとよく知っている、二人と話してそう感じた。

時折こんな風に「こんなに大きくなったよ」「休みにどこも行かないなら、うちに来ない?」とメッセージをくれる。

この街の片隅で、プロ意識を持った職人の彼女なら田舎で暮らすよりもよっぽど金銭的には余裕のある暮らしができたろう。でも、彼女の選択はすごく早かったし、迷いがなかった。

彼女は目の前にあるものをしっかりと抱きしめている、と感じる。
だからこそ、一介の客だった私にもそんな思いやりを示せるのだ。

すべて目の前にあるのだから、抱きしめて大切にすればいい。それだけなのだけれど、実は一番難しいことなのかもしれない。オンラインに逃げることなく目の前の現実を抱きしめることこそが、自分を抱きしめて、満たして大切にすることだって気がつけば世界は変わるんだけどね。

自分がもっている、かけがえのないものをもってることに感謝する。
ホントそれだけでいい気がする。ありがとうございますって。毎日。毎日ね。

私はある意味とてもよく知っている。
今ある環境が当たり前でないことも、自分が欲しくて得られなかった、
多くの人が当たり前にもっているものがどれくらいかけがえないものかも。

だからこのプレシャスな人生とか世界に全身全霊で感謝する。
その結果得られるものって、想像以上のもの。

祈りと誓いによって作られる。

誓いと言う言葉が頭に降りてきたので、辞書で引いてみた。

1 神仏に誓うこと。願(がん)。「禁酒禁煙の―を立てる」
2 将来、ある事を必ず成し遂げようと決心または約束すること。「―を交わす」
3 衆生(しゅじょう)を救おうとする仏・菩薩(ぼさつ)の願い。誓願。弘誓(ぐぜい)。

引用もとこちら

そう言えば私も日本で仕事していた時はわりと日常的に誓いを立てていた。
裁判所での仕事の時だ。

良心に則って誠実に真実のみを語ることを誓います、と言う文面だったような気がする。

それを読み上げて署名して仕事をしていた。

いつもありがとうとか感謝してるとか大切にするって相手に伝えていることは、その気持ちや相手に嘘がないという瞬間的なものだけではなく、これからもそうなんだと言う誠意がこもっているように感じる。

だから菩薩の誓願と言う意味も誓いという単語の意味に含まれているのだろうと考えると何となく腑に落ちる。

よい時も苦しい時もある人生や毎日の中で、変わらぬ愛情や感謝を。
状況が好転したら最善を尽くすと言う決意がその言葉に含まれているなら、それを誓いと呼ぶのが一番フィットする。

祈りが日常の無意識をリードしていくように、日々の感謝を通した誓いも最善へ私たちを運んでいってくれる。
そんな確信。