時代劇の映画を観ていて、武士のご主人が戻ると土間で奥さんが「お戻りなさいませ」と足を洗う姿が美しいなと思っていた。ローマを舞台にしたヨーロッパの時代劇でも、戦士である主人が戻ると妻が彼の足を洗っているシーンがあった。
大切な人の足を洗う、というのは敬意を表すための美しく正しい行為だなと深く感じた。
このブログでも何度も書いているように、100の言葉を紡ぐよりひとつの行動によって示すものに価値を見いだせる同じ価値観の人でないと理解しづらいかもしれない。
今の時代、女の人も強くなって、外に働きに出ている昨今、「そんなのやってられますかいな」という風潮も十分理解している。だけれど、自らが愛し尊敬するパートナーにそんな想いが芽生えないの?と思う。
「足を洗う」とは語源由来辞典によると
聖書の中にも実は足を洗う話がある。
「ヨハネによる福音書」 13章1節~11節、最後の晩餐の際、イエスが弟子達の足を洗う記述がある。詳細はこちら
昔の道路状況と靴では出先から戻ったらまずは汚れた足を洗うことでようやく「外」から「内」への切り替えをしただろうし、不自由な履物を脱いで足を洗うことで出先での疲れも取ったのだろうと思う。
また、スピリチュアルでは邪気は足裏から出ると考えられている。外で触れて来たであろうものや自らの内部に生じた「邪」なものを水で洗い清めると言う意図があったかどうかは分からない。だけれど、それらを内部に持ち込まないことに結果的に一役買っていただろう。
「足」というのは上下でいうと下、穢れやすい部分と考えられている表現やエピソードはここに紹介しなくても日常的に使っていると思う。
足を洗うということは聖書の中でイエスが言うように、清められる行為、そのものと言っていいのだろうと思う。
話を最初に戻そう。
映画の中で妻が夫の足を洗うという行為に無事の帰宅への安堵と喜びを感じながら、清めることに純粋な愛情と感謝のひとつの表現として私は美しさを感じたに他ならない。
宗教においても象徴的に「足を洗う」という所作が使われているけれど、「家」こそが「神殿」だと思えば同じコンテクストなのだ。だから常に整然と浄化されていないといけない。
「マダムはお花が好きですね」とお買い物から戻ると、周りのローカルの人達がいう(いくらで買ったかも聞かれるけれど、適正な価格で買っているらしい)。清浄で整った場所でないとお花も飾れない。家が神殿だと考えれば、神殿には花を供え、いつも良い気を放つよう心がけられたらとおもうのである。(お花がすぐ枯れるのはその場所に問題があると言うこと。センサーの役目も果たしている)
今の世の中、そんな風にパートナーの足を洗う人がどれだけいるのかわからない。でもたまには感謝の気持ちを込めて背中を流してあげ、心を込めて洋服を洗ってあげることだって、「足を洗う」という感謝に通じるのではないかしらと思う。
近頃、「尊敬」ということを良く考えている。愛情と尊敬。
どちらもパートナーシップには不可欠だと思う。
自分のパートナーに「あなたは素晴らしい」と心の底から言えるパートナーシップを築けていない人達の多いことにふと気がつかされる記事を読んだとき、殺伐とした気持ちになった。「歯磨き粉を歯ブラシにつけてあげる」位のことで、「女は家政婦か」と言われてしまったら、「足を洗う」なんて「男尊女卑」も良いところなんだろうと思う。
「おかげさま」という気持ちを表現してもらおうが、「自分の手柄」にならないことが面白くない人が多いのかもしれない。
自分の手柄がパートナーと彼の成功そのものである、と思えばその気持ちは満たされるのか、と考えるけれどそれもどうなんだろうと私なんかは思ってしまう。
結局、人間は誰かに認められたくて、損得勘定をしてしまうが故に、自分が信じた人にただただ尽くし抜くのは幻想なのかしらん。
結局、尽くし抜くということに対して「損得」ではないにしても何かしらの充足をパートナーによって与えられる、そばにいることで感じられれば、それほど難しくないと思う。(大前提として、お互い深く愛し合っているということがあるだろうけれど)
世界の東西いずれにも、「(主人の)足を洗う」という行為があったということは普遍的な意味合いをもたせても良い気がする。だけれど、時代が変わり、社会が変わると何か根本的な本質を見失い、自らの性差は特長ではなく差別の対象となってしまった。
ただ一人、自分だけのことをしっかりとすることはさほど難しいことではない。それもそれなりに楽しい。ただ、1はいつまで経っても1で、2にも3にもなりはしない。その虚しさを知っている人(一対)だけが、1+1の以上の何かにたどり着くべく淡々と歩めるのかもしれない。
そういう時間を意識的に積み重ねた日常だけが本人達も想像だにしなかったような境地へ足を踏み入れさせる。