この世の儚さ

皆様いかがお過ごしでしょうか。年も押し迫ってまいりましたが、今年は本当に不思議な時間を過ごしたという印象です。皆様はいかがお考えでしょう。

今日は、大好きな弁天さまのお写真をお借りしてあげました。弁天さまにはご縁が深く、今度京都に行った折には、祠の修復をお手伝いした湖のそばにある弁天さまにお参りしようと今から楽しみにしていたりします。

世界や社会や周りの人々の普段の生活では窺い知ることのできない一面を垣間見るような年だったように思います。思うにそれでも私が何十年も前に暮らした異国の村は同じように時間が流れ、毎日同じような暮らしをし、毎日同じような会話をし、同じようなものを食べ、恋をしたり喧嘩をしたり、同じような噂話をしながら酒を飲み、そして誰かが死に、誰かが生まれていっているのだと思います。

単調な暮らしの中に安寧を見出せるということは、単調、という言葉が示すように短い調べ、同じようなルーティンという周波数が短く淡々と繰り返されていることが生活であり、人生であるからこそ、そのことに安心を持っていられるのではないかと彼らの暮らしを見ながら考えていました。日本人の暮らしも同じような単調さを内包しているように感じますが、少し彼らの社会よりも複雑です。単調さの中にただその身を置いておけばそのような不安も起こらないのでしょうが、この情報社会となった世の中では難しいこと。誰もが単調の中に違う周波数のメロディを感じる中で判断が求められているのですが、情報過多、扇動的な表現やbroadcastingにまみれ殺伐とした雰囲気を敏感に感じ取り、不安感を増長させ、自らを失っているのではないかしらと思います。自己判断、決断が本当に難しい時代だと思います。

世界中がそのような漠然とした不安感の中にあるにもかかわらず、数年に一度の国家的お家芸をさらに加速発展させて、俺らの税金を返せ!とシュプレヒコールを若者たちが中心になって声をあげている姿を見ると、この単調な旋律は何があっても世代をこえて変わらずつまびき続けられるのだ、とニヤリとしてしまったりするほどです。

仏様や神様は天界からこんな時代をどのようにご覧になるのだろう、神様も仏様もさぞお疲れなのではないですか、ご自愛くださいませと手を合わせることが多くなりました。

私にとってこの時期はむしろ心穏やかに、静謐な時間だったと総じて言えるのではないかと思います。毎日のくらしをひそやかに、子供時代に帰ったようにピアノを弾き、学び、考えておりました。

儚さを尊ぶという気持ちでしょうか。
すべてが借りもので、今ただこの瞬間手にあるだけのことなのだとしたら、それを十分慈しむこと、愛おしいと思うこと以外に何ができるだろうかということです。それ以外の気持ちを持つようなものはできるだけ遠ざけて過ごしてこられたと思っています。

ただ、人間というのはやはり恐ろしいと思うこともございました。丁寧にすることで軽んじられること、純粋な思いが返って疑いを持たせてしまうこと。こんな時代や世界になぜ生を受けてしまっているのだろうと思いますが、いつだって本質は同じ問題ですから、わたくしにも非があるのでしょう。やらなければよかったと後悔しきりですが、お節介なのでしょうね。

絶対とか必ず、なんていう言葉を軽々しくお使いになる人とは長続きしないなぁとも思います。今まで以上に刹那に生きるということを実感します。一瞬後が是なのか非なのか。刹那の変化を受け入れていく時代といって良いのかもしれません。

20代から30代はずっと刹那の感覚の中で生きていました。今一瞬と次の一瞬は全く別の世界である、全ては諸行無常であり、愛も信頼も全て刹那レベルでしか続かない物だと強く思っておりました。その刹那の連続がいつどこで途切れるのか、それは誰にもわからない。それこそが今生を生きることだという認識でした。

その感覚を少し横に置いて、永続する何かに目をやる数年でしたが、やはり今年を生き抜いていけたのは、その刹那の信頼、確信を淡々と重ねていくことだけでした。厳しい時代、厳しい感覚といえばそうかもしれませんが、逆に過度な期待をせず今この瞬間を誠実に実直に生きるということに尽きます。その先にあるのが結果的に未来と呼ぶ物でしょうが、そこにたどり着くこともそのあり方も刹那の結果でしかないと改めて感じ入ることで恐れることは無くなりました。

その中で心に残るようなやりとりや思いやりを持って生きていければ、それが一番ありがたいと思っています。

面白くないという気持ちも、悲しい気持ちもできるだけ小さくして、心穏やかに全てを包み込んで大丈夫という気持ちで全てのものに接していくことができれば、それで上々。

上々のわたくしでいられるように、好きな着物に袖を通し、自分の美味しいと思う料理をし、花をいけ、居所を整えて良い言葉をかけていければいいなぁとそればかりです。

今日はたわいのないことばかり書き連ねました。

また次回ゆっくりとお話しできるようにと思います。

味方。

また長くかけないで、久しぶりの更新です。

日本は今年は雨季じゃなかった梅雨が早いそうですね。
紫陽花を見ると大学時代に園芸の講義で聞いた、お滝さんという方と恋に落ちて紫陽花の学名にOtaksa(オタキサン)とつけたシーボルトのことを思い出します。(そのエピソードはリンクのウィキを参照してください)

好きな小説家は誰、という話から吉川英治先生を思い出し、まだ読んでいなかった源頼朝などをパラパラと読んでいます。
史実と想像の部分を調べながら読み進めるのが好きです。

そろそろたくさん睡蓮や蓮を目にする季節かなぁと思うとワクワクします。

泥水を吸って美しく気品を持って咲く姿に涅槃を重ねた昔の人は想像力があるなぁと思います。

さて。

相変わらず数字やら星の動きを真剣に勉強できてはいませんが、パーツパーツを調べては色々と考えていたりします。

その参考にしているブログの一つに、月星座がピンとこない人の本質みたいなのを抜粋している記事があったのです。

私の月星座では、警戒心が強くて、自分の足を引っ張りそうな敵を探して自らの能力が敵に見つからないように隠し、
それゆえに自分の能力を十分発揮できず、弱いと思った他人がつけ込んでくるということが多いので、敵と認識しないで、味方につければいいというようなことが書いてありました。

いい加減、年齢を経てくると「きゃー、当たってるぅぅぅ」なんていうのはもはやイマジネーションの世界でしかないのですが、
「そうか、味方につければいいのか」

と、新鮮でした。

味方につけるっていうのは、当て字でほんとうは「天皇」側につく「御方」だったそうです。

誰かに自分のことを好ましく思ってもらうことよりも、この一瞬、正誤は別にして私の側に理解を示してもらいやすいように振る舞うぐらいならもう少し容易かもしれない。

と、なぜか思えたことも不思議で。

人によっては逆に感じる人もいるだろうし、味方は寝返るかもしれないとか思うかもしれない。

まだ色々考えてるところなのですが。
周りを敵だと思わないということ。

この言葉が身にしみてから、もう街でもどこでもそう思いながら人と相対するようにしています。
そうすると確かに少し構えた部分が収まって、気楽な風が今までよりも吹いている気がして、少し今までよりも楽しく感じています。

生きてれば矢面、な時代からうまくみんなを味方につけていけるような感じに変わっていけているのならそれはそれでいいのかなぁと。

心身の基礎体力

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美しい佇まいというのは実は自分の持てる元々の力がしっかりあることが大事なのでは、という最近の気づき。

美しくあるためにはある程度の力(パワー、経験)などがないとやはり美しくなりえない。自分で着物を着付けられるのと、美しく着付けられるのとは全く違う。着物を着つけるのは以外と力仕事で、帯をしっかり締めるにはテクニックも力もある程度必要。そのためには頻繁に着付けないとねっていう感じだと思う。

着物の世界は奥が深いから、それ以外にもたくさんの約束事や覚えておくこともあって、ただそれだけとは言えないとは思うけれど。

日常生活のふとした立ち振る舞いだってそういうことなのかもしれないと思う。
自分の手に余ることを人はたくさんしないといけない毎日では、どうしても自分の持てる力以上のことを無理やりやることの連続なのかもしれない。力があったとしても、疲れていて本調子ではなかったりする日もあるだろう。

家にあるものが溢れるのだって、散らかるのも、家の中に置き場のない、”オーバーキャパシティ”の状態だ。

私たちはそうやって精神的にも物質的にも”オーバーキャパシティ”な世界にいるのかもしれない。インターネットの中ですら、情報があふれてた世界。

”断捨離”という言葉がもてはやされて、皆がものを簡単に購入するのと同じように手放すことを促すようにはなった。
”瞑想”だって、オーバーキャパシティの自分の脳みそや心を少し休ませることだ。

それが日常になるということは、人間の体と同じで入ってきたものを規則正しく出しているだけだ、とも言える。

次の段階では、入ってくるものを減らしたり、より選ぶようになる。
快適な循環のためにはそれがスムースだから。

やらないとどんどん溜まっていく。
嫌になってそれを見てみないふりをしたりもするだろう。
でもそれはまた別の話。

そうやってルーティンとしての浄化、入ってくるものの精査をしたって、自分のキャパシティが大きくなるわけではない。
浄化と美しくある有り様はイコールではないのだ。

毎日同じことをしていても、年を重ねると若い時のように気も心も変化する。若い頃のように、気力が充実した頃のように、行かないこともいろいろとあるのかもしれない。そう感じることを少しでも遅くすることができるとするならば、それは自分の心身の体力作りを怠らないということなのだろうと思う。

例えば、無理やり持った重い荷物をたとえ持てたとしても、静かに置けるのかどうか、”あー重たいっ!”と放り投げないのには自分の体力が必須なのだ。それは最後まで丁寧にやり遂げることに気遣うことよりももしかすると基本的なことなのかもしれない。

人が美しく年を重ねて、より成長しながら生きていくためには、実は心身の基礎体力を少しずつでも高める努力を怠らないことにあるのかもしれない。年を重ねるということがすなわち美しく、賢くなるということではないことは当然のこと。
だから、いくつになっても謙虚に毎日を新鮮に生き続けるというのは自分へのチャレンジとも言える。

寒さの中で凛と咲く梅のように。

 

 

変化の萌芽

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昨日は満月で、いろいろな星の動きを説明する専門家の人たちが、今回の満月はパラダイムシフトのような大きな動きですよ、という。

そういうことを新月や満月のたびに特別な意味を持っているようにいうのがお仕事と言ってしまえばそうともいえる事柄を、受け取る側が自分のタイミングで”これはちょっとスペシャルなのだ”と思うものなのだろうと思う。

とはいえ。
星の動きが多少ならずとも結果的にいろいろなこととシンクロしていることを知っている私としては、今の自分の周りの状況と照らし合わせても大切なタイミングかもしれない。

パラダイムシフトが起こると言っても、それは誰かにとっては精神のパラダイムシフトかもしれないし、なんだろう、何かしらの星の配置や有り様と自分自身、自分の周りの断片がシンクロしていることを私たちは星を語る人たちの言葉から見つけ出しているのだろう。

いずれにせよ、それは私たちの人生や精神に起こるもの”そのもの”ではなく、兆候に過ぎないのだけれど、その徴候っていうのが実はとても大事なのではないかと思う。

徴候、兆候、”きざし”は心静かに目を凝らしていないと見えない。
大きな動きになった時にはもう兆候、とは言えないから。

人には毎日24時間、365日が均等に与えられていて、その中で個人差はあっても皆、”日常”を生きている。その瞬間瞬間を全く想定が不可能なドラスティックな変化と共に生きている人は”日常”を生きているとは言えないが、ほとんどの人が好むと好まざるとに関わらず、自らの”日常”を生きている。

変化の萌芽は自分を取り巻く環境にも自分自身、精神、あらゆるところにある。
それが日常を結果的に変化させ、自らを変化させていくものだとも言える。
武道ではそういう萌芽を”おこり”と呼ぶのではないかと思っている。その”おこり”が小さければ小さいほど、相手に自分の動きを悟られずに優位に戦う機会を得る。

”おこり”を相手に感じさせないということは、逆に言うと自分がいかにその”おこり”を意識しているか、すなわち”変化の萌芽”を認識しているかということに通じるのではないかと感じている。自分の動き、変化の萌芽に無頓着であればあるほど、相手にはそれがよく見える。だから相手に攻撃されてもなぜそういう風になったのかが理解できない。

”おこり”を少なくする、というのは自覚の問題なので、相手に攻撃の隙を与えにくくするのだろう。

”変化の萌芽”は、どこにでも起こりうる。それをどれだけ自覚しているのか、まさにそれはヴィパサナ瞑想などでよく言われる、”自分の一挙手一動を意識する”ということにも通じる。彼らの瞑想のリーディングはまさに、”おこりの意識化”と言っていい。

”今、右足が地面から離れました”
”今、右足の膝が曲がりました”
”今、右足のかかとが地面に着きました”

延々と続く、行動の描写は、自分の体が起こそうとする動きを認識すること。
眠い、疲れたというような自主的ではない動きも、”変化の萌芽”として捕まえて、善悪なく自らの存在を認識しながら自己を解放していく手法だと私は理解している。

萌芽というのは水に投げ込んだ石のような大きなおこりをもって周りにはどうを広げるようなものではなく、もっとわずかで、小さく、謙虚な始まりで、ややもすると見過ごしてしまうようなものだから、それを見い出せるような心持ちを常に持つことが一つ自分の心身の安定性を測るバロメーターにもなっている。

そして、それが見出せた時に、過度に浮き足立つことも、過剰な意味づけをすることもなく、ただ淡々と、変化の萌芽を見つけたら、その先に広がる数多くの選択肢に謙虚に耳を傾け、目を見開いておくしかない。それこそが”カミサマノイウトオリ”に行動するための最善の方法と確信している。

漫然とした毎日であっても必ず誰の生活にも感情にも変化の萌芽はあるはずで、それを見ないふりをしたり、見過ごして過ごすのか、心身清らかにそれらを大切に育てていくのかによって人生は大きく変わるということをずいぶん長い時間をかけて学んできたように思う。

過去を見るのでも、先を見通すのでもない、ただその自身に起こる何かを意識することがいかに自分のスタンドポイントを教えてくれ、守ってくれるものなのかは、おそらくそう遠くない将来に明らかにされていくのだろう。もちろん、私のように何年もかけて明らかにされていくことだってあるのかもしれない。だけれど、それが人生なのだから、それでよかったのだろう。

”萌芽”は無理に見つけるものではない。その萌芽が意味するものが良いものであれ、悪いものであれ、いいや、その萌芽自体に善悪は内包されていない。ただ、自然と目の前に飛び込んできたり、手のひらにちょこんと乗っているもの、ということですら、体得するのに時間がかかったように思う。
実直にそれを求める姿勢がそうさせたのかもしれないけれど、明らかに違うのだと今の私はよくわかる。

以前、パートナーがよく、”状況証拠は全て揃っている”と刑事のような表現で私たちの周りに起こる不可思議な現象を表現していたのをふと思い出した。無意識が”それ、間違いない”という強烈なものを幾つか掴み取っていくことで、私たちは徐々にうまくそれらを捕まえて育てていけるようになったように思う。そうなると初めて外に出ることを許された深窓の令嬢よろしく、自由にあらゆる世界を闊歩するようになるのだけれど、それでも不思議なほど、冷静で穏やか。身体は街を自由に闊歩しながら、意識は暖かい暖炉のそばでコーヒーをいただきながら読書をしているような安堵感に満ちている。

その安堵感は先遣隊のように前もって合図をつかめているからこそのなのだと思う。
私にとって何より感謝すべきは、そばで同じ合図を掴んでいる人がいることなのだろう、そんな日常の積み重ねが私を解放してくれている。

 

一事が万事

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日々を丁寧に生きていくことで、自分の心、むしろ肝に命じていることがある。

それが今日のタイトル「一事が万事」

例えば、美しくありたいと思った時、それは何を指すのだろう。見た目の美しさなのか、美しく着飾れることなのだろうか。

「美しく、ある」ということだからそれは見た目だけではなく、言葉使いや人に対する思いやり、全人格、存在そのものを「美しく」あろうという姿勢なのである。見た目だけ綺麗にして、部屋が汚いとかは「美しく、ある」とはならない。

そういう姿勢で毎日の暮らしの一つ一つ、誰かとのやりとり一つずつをこなしながら積み重ねることが「美しく、ある」という状態を常に取り繕うことなく(まるでお客様が来たら、お通しする部屋以外がひっくり返っているような状態)「ある」ということなのだろう。

それが等身大ということだし、ありうべき自分の実践だろうと思っている。

以前はフェイスブックを通して仕事の問い合わせが多かったので、自己紹介欄には、お互いが尊重しあえる関係性を構築できる方とエレガントな関係を構築してビジネスがしたいと書いていた。

文章のやりとりだけではわからない、という人もいらっしゃるけれど、私は結構いろんなことがわかると思っている。まず、ビジネスの姿勢はどんなメールアドレスで、自営業なら独自ドメインかどうかで判断できる。どんな言葉を使うのか。きちんと心のこもっていると感じられる挨拶をするのか、定型文なやり取りか、相手の返信が待てるのか。些少のことかもしれない。だけれどそれが「万事」に通じる。

そもそも、逢わないとわからない、なんて時は十分に語り尽くす努力を果たしていないのではないかと思う。だって恋人や家族じゃないんだから、どうしてそんなすぐ知らない人とビジネスだからってお目にかからないといけないの?って思う。こんなにいろんな通信手段がある時代に。どちらも機運が高まって「会いましょう」となるのが私としては理想的だ。

メールが必要最低限の通信文だけになるのは、お互いがビジネスパートナーとして「使える」とお互いそれぞれ判断、信頼できてから、すなわちずっとずっと先のことだろうと思う。

今までの経験上、文章での違和感を押してわざわざ時間を割いてお目にかかって、きちんとした仕事につながったことがない。がっかりしたり、残念だったり、ブチ切れたり、キレられたり、いろいろである。

ということは、文章にしても、身綺麗にしておくということ一つに取っても、常に「一事が万事」自分がそのように見受けられるという覚悟をして表に出さないといけないのだ。

わざわざ、お家の片付いていないお部屋を覗かなくても、いつも片付いているかどうかわかるひとにはわかる。

もちろん、片付いていなくても平気な人もいるだろう。だって他人の家だから。自分が通される部屋が快適ならそれでもいいなら、そういう人はそういう人と付き合えば良いのだろうと思う。

人生の時間もビジネスをする時間も限られているから、必要なことを端的にやりたい。

東南アジア周りにいて、曖昧なことや適当なことがまかり通っていくことが、快適になっていかなかった私は、結果的に自分の中にある「律」に常に帰っていかざるを得なかったのかもしれない。それが結果的に、身を助けてくれていたし、その中にあって「私」を保ち続けられたのだろうと思う。

万全だと思っていても「ケチ」がついてダメになることがあるのだもの、それでも腐らないで行くためには自分のクライテリアを落とさず、じっと欲しいカードを待てるかどうか。そのカードが来た時に全身全霊で勝負がかけられるように己を整えていられるかどうか。それこそが「一事が万事」ということでもあるし、「修行一生、勝負一瞬」ということでもある。

毎日の暮らしもビジネスも同じこと、礼に始まって礼に終わる。全てはその人を表す鏡なのだから。それを肝に銘じて今日も、また一日。

 

この世界・リアル・近況

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Facebookもブログもご無沙汰なので、身体を気遣っていただくメールなんかも頂戴してありがたい限りです。

今回はそういうこともあって、近況的なことを。

この数ヶ月ぐらいでしょうか、ずいぶんこの世界について自分なりに勉強をして目が開いたなぁというところがあります。今までは裏返っていたままでいたカードがどんどん開いていく。いろんな人の思惑や想いを歴史的に地域的に見通すという作業をあいた時間にせっせとやっておりました。

世の中には奇想天外な話の方が実は現実だったりします。そういうことも含めて、パートナーに教えてもらったり自分で勉強をしたり、Facebookのお友達の方に教えていただいたりしてきました。

勉強したい、知りたい、わかりたい。そういう私に「わかっている」人たちが決まっておっしゃることがありました。
「考えるな、感じるんだ」

暑い国にいるせいか?よる年波か?理解力はあるけれど記憶力は乏しく(苦笑)、詰め込み過ぎでしょうといわれながら、いろいろなことをつまみ食いしながら、自分なりに感じた結論は呆然とするものでした。
そして「考える」ことや「勉強」ではなく、「感じた」ことが私にとっての「真実」なのだろうと。

何がどうということはここで明かすのは適切ではないので控えますが、人生でそう受けることのない大きさの衝撃を受けました。本当に肩の力が抜けるような無力感がここ数週間ありました。私は外的ショックに強いので、自分の中枢までそのショックが届いてようやく「私は今ひどく混乱しているんだ」と気がつきました。

十分回復したとは言えないのですが、少し今の時点で言葉にしておこうと無理矢理キーボードを叩いています。

予測はしていたろうし、頭ではそう考えていたことを魂や心が「真実」としたときの衝撃の深さは思いのほか計り知れないことでした。

それでも世界は回っていくし、人は生まれ、死んでいきます。

今の私がローマ時代に何かを求める理由もおぼろげながらこの結論と関係があることもわかってきました。

私にとってラッキーなことはこんなドラスティックに今まで当たり前だと思っていたことが崩壊するということがはじめてではないということ、そして今回はそれを理解して共有してその先の未来を語り合える相手がいることが何よりの救いです。

何もかもが倒壊した更地のような心は、モノの見方をドラスティックに転換させます。

感覚的に、でもいろいろな情報ソースや今までの思考の蓄積を経て、私がこのブログに留め置きたいと思っていた「わかった」という感覚のスピードがあまりにも速く、また一般的な人の理解を超えていることは十分承知しているので「わかるように」言語化することに内容の取捨選択だとかいろんな要素が加わることになり、書きづらくなったことも事実です。私の考えを理解して、共有してもらうために前提とする概念や情報が今まで以上に深まって来たとも言えます。

スピードが速くなるということは、その先へと深める時間がとれるということになります。加速して今見るべき事柄や感じるべき事柄を全身全霊で受け止めているとも言えます。

今までのようなブログがどれぐらいかけるようになるか。
今はまだ見えていないのが正直なところです。寝かしているテーマや熟成させているストーリーがいくつもあります。

日々のこういった感度高い感性を維持しながら、若干迷いながら走っているのが今の私です。
その中で今ひとつだけお伝えできるのは「リアル」「現実」「体験」がすべてだということです。
手に触れられること、聞こえるもの、味わえるもの。そういうものを大切にしていくことが人生のすべてであるということ。

肉体の感覚と意識をリンクさせていくことこそが、これからの世界で生きていくための守り刀であり、自らを照らす光であり、「生きる」ということそのもの、すなわち、喜び、楽しみ、味わい、愛で、愛し合うということではないかしらということだけはおぼろげながら。

北風と太陽

旅人のコートを脱がせる勝負をした北風と太陽。吹き飛ばすのか、ぬくぬくさせて脱がせるのか対決。

飴とムチ、アメリカのドラマだとGood cop Bad cop(いいおまわりさんと悪いおまわりさん)

人を本人が望むべきところへ到達させる、または思い通りにさせる対決。

脅すのか甘やかすのか。

最近の風潮は「厳しくしてもだめでしょう」ってことが多い気がする。何かにつけてね。
それも間違いではないと思います。

人生で何度か「お願いします」と言われて誰かのことを見守ることがある。
お願いされなくたって、大事な人のことは見守っている。
丁寧に話を聞いて、本人の願いを理解して。

私はどちらかと言うと太陽型の人で、褒めるの大好きだし、人のいいところ見つけるのが得意だ。
教えるという職業がフィットしていたのもそこだと思う。

だけれど、15年以上の指導経験で学んだことが少なからずある。

現状が辛い、こんなに困っていて傷ついて辛いんだというところにどうしてもシンクロする私は、その痛みを取ってあげようとしてしまう。精一杯評価して甘やかしちゃった人が何人もいる。

もちろん最初はよかった。
傷が癒されたような感じで、前向きになって。

さて、そこからは歩みを進めないといけない。
だけれど、進まない。進めない。何かあると古傷がでてくる。
イメージでいうと「私やせたいの」っていいながらポテトチップ食べている太ったオンナみたいになる。

もうこうなると手が付けられない。
万全に理解してくれる私を知っているから、私は許してくれる、と思う訳である。

私はそうやって何人かの人生をある意味だめにしたんじゃないか、と思うことがある。
甘やかすことが愛情じゃない、と言われたって、あまやかしてほしい気持ちを無視できなかった。

甘やかされることで出来上がる信用を土台にしてあがっていくんだという希望をどれくらい持っていればいいのかわからなくなったとき、「私がいたらもうずっとこの私は悪くない、っていう自己肯定とエクスキューズの無限ループにいるな」と確信せざるを得なくなる。

そこで私が立ち去ったあとの彼らの態度も一様に同じだった。
私は許してくれる。
イイコにしてたらまたチャンスをくれる。

もちろんそんなチャンスはない。
だってたくさんあげたもの。
ずっと待ってたもの。あなたがポテチ食べてる間。

そして激しく私を恨んで憎む。
それでもいいと思う。返す刀でいくべき道に行けるなら。
本来のその人になれるのなら。

もっと上手にできたらと思うけれど、人間は弱いし怠けるし。

自分の経験を通しての最善を提供するだけなのだけれど、人よりも多少?しつこく物事をやり続け、考え続ける私のようなやり方とは土台が違うのかもしれないと思うようになり。

見返りなんて欲しいとも、私が思う通りになってほしいとも思わないのですが、ただただ、本人の願う人生を歩めたらと思うばかりで。

ただ、どちらにとっても時間は有限だし、仕事でも家族でもないなら、やはり別れは来る。
その別れが、成長したからもういいね、と巣立ってくれることも、先ほどのような苦い別れを迎えることも。

どちらにせよ、自分の人生に責任を持って生きる。それに尽きるんだろう。

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レンタルサーバーを移行したかっただけなんだけれど、なんだかぐちゃぐちゃっとやってしまった。
丁寧にとってあったはずのバックアップがうまくアップされない。古いものじゃなくて新しいものに光を当てる〜illuminate〜する日だからいいか、と思って。

ということで違うドメインで再開します。
結果的に、思い入れをもってずっと大事にしていたドメインで再開することになったのはよかったのかも。
このドメインの話もしますね。

今日の空はすごく抜けた明るいよい空です。

何か考えがまとまったときに、見てもらえる人の多いすくないは別として、書いてだす場所がないのがすごく落ち着かないと気がつきました。

仕事用のブログをやっていた時は、考えたことを書けなくてなんだか悶々としていたのも今は昔。

たった二つのこと。

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毎日の暮らしの中で、起こることをすべて受け入れていこうと思って、自分の望む最善の世界を信じていこうとしたときに、見落としていたことがあったことを教えてもらった。

ひとつは、精進が第一義にくるということ。
いくらカミサマノイウトオリ、宇宙や神様が示してくれた道をいく、と決めたとしてもそれだけでは不十分なのは当然のことなのだけれど。

どうしてもなんでも聞きたくなってしまう。
何が欠けているのか、どうしてなのか、どうすればいいのか。

でも、それよりもすることがあるんだなぁって教えてもらった。

シンプルに、自分を高めていくこと。
精進に集中すること。
心身を常に清浄に保つこと。
穏やかにアンテナを立てつついること。

それが最善というか、自分がするべきことはもうそれだけなのだ。

そして、信じきるというのが最後にして最も大切で、実は難しかったりすることなのかもしれない。

今回使った写真は、友人が自分の愛娘を抱いて何かを彼女に話しかけている姿。
娘は安心しきって父親に身体を預けているし、父親である友人の背中は自信と力強さに満ちている。

彼女は守られていることを無意識であろうけれどしっかりと知っていて。
友人は彼女達を守ることにちゃんと自信をもっているし、その決意があることを背中が物語っている。

不安っていうのは無意識に、知らないところから、いつの間にか忍び込んでいて、抜き差しならない。だけれど、これがある限り、信じきることはできないし、預けきることができない。捨身できないということ。

彼らのように、自分の存在を確たるものとしてくれる存在に心身を預けられて、
自分と未来と自分のことを大切にしてくれて、自分にとって大切な人を信じきることができたら、

多くの宗教などが教える「心の平安」や「穏やかな気持ち」という、もともとおそらく自分の心に備わっているものに気がつくことができる。

この二つは相即不離でどちらが優位ということではなく、どちらももう一方の拠り所になるし、強くしていく関係でもあるのだ。それぞれがそれぞれが正しいことの根拠となる。

人間の耐性とある決意

2014-01-20 16.26.21

エスキモーの人だったかなぁ、ずっと首を絞められているとそれになれちゃうんだって言う話を聞いたことがある。(どうして首しめるんだったかは記憶にないんだけれど、大阪の「みんぱく」で見たビデオで聞いたんだと思う。あまりにも衝撃的だったからずっと覚えている)

首を絞めるという具体的に肉体に及ぼされる行為であっても、精神に及ぼされる行為であっても人間はその目的や理由を納得さえすればそれに順応して耐えられるように変化していくんだということをそのときに何となく理解したような気がする。

それは「ありうべき姿」だとか「希望的観測」とかなんでもいいんだろうとも思う。私がずっとこの国で求めてきたものだって実はそうだったのかもしれない。それがあったからこそ、自分の心が壊れそうな出来事があっても、そこにすら「希望的観測」と言うよりは一歩はなれると「無理矢理良い方に転換する」または「諦観」というこの国にいるとうまく使わないとやっていけないこの仏教思想を手だてとしてエクスキューズをしてきたのだろうと思う。

エクスキューズをし続けて、何を得て何が変わったのだろうか。私はずいぶん忍耐強くなったし、相手の思いを汲み取り、理解するということにかけては本当に高い能力を持つことになったと思う。じゃぁ、それに応じて環境は変わったのかというとそうでもないというのが結論だ。理解を示すことが相互の関係を良くしていくのではなくむしろ、相手にマウンティングされる、助長されるチャンスを与えるだけのものだと。

論より証拠、この国では「誰かからお金をもらった側」と「もらえなかった側」が争いを続ける。彼らはお互いの手の内を良く知っているから相手にマウンティングされるようなチャンスは与えない。ただひたすらにそのグループの人たちが思う「ありうべき姿」を追求して、首を絞めあうだけのことなのである。

これはもう「ネバーエンディングストーリー」終わりのない物語、と呼ぶにふさわしい、いろんなことに耐性のない彼らが実はこんなところで強力な耐性を発揮するのはなかなか皮肉だなと思いますが。

この物語に気がついた時点でもう麻酔は切れちゃうんですよね。シンデレラが舞踏会で夢見心地に王子様とダンスをしていたのと同じ感じ。本当はぼろぼろの洋服でいたのにねって。首を絞められていたら苦しい。裏切られたら心が痛い。人間が普通に暮らしていると普通に感じる感覚が心身によみがえってくる。

あたりまえのことなんだけれど「こんなに痛かったの?」「こんなに苦しいこと今までしていたの?」

何やってたんだ?と思う。

ある場所で出会うべくして新しい友人ができた時、彼はここに希望と夢と将来をかけていたと思う。その彼に私を含めて数人の新しい友人達が出会って一斉に同じ見解を彼に話したという。その友人達も皆10年以上のキャリアの持ち主だそうで。

ほぼ一年かけて彼は友人や私の意図するところをあっという間に汲み取り、一年前とは全く違う彼らしい方向性を見つけたことを話してくれた。

「思考」する人間にとって、その流れを抑制されて同じ結論にだけいつもたどり着くようにするなんて言うのは本当に苦しいことで。そしてそれが世界のマジョリティーでもなんでもないし、自分にとって「正しい」と思えることでもないのであればその苦しさを許容してまで自分の思考や行動を抑制することには何の意味もない。

自分の思考が抑制されない、ドラッグのような、自分が正しいと思えない誰かの「ありうべき姿」や「希望的観測」で惑わされもしない場所だってあるはずだ。

ありのままでいくという決意。安い酒のように酔いきれない美辞麗句はいらない。