一事が万事

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日々を丁寧に生きていくことで、自分の心、むしろ肝に命じていることがある。

それが今日のタイトル「一事が万事」

例えば、美しくありたいと思った時、それは何を指すのだろう。見た目の美しさなのか、美しく着飾れることなのだろうか。

「美しく、ある」ということだからそれは見た目だけではなく、言葉使いや人に対する思いやり、全人格、存在そのものを「美しく」あろうという姿勢なのである。見た目だけ綺麗にして、部屋が汚いとかは「美しく、ある」とはならない。

そういう姿勢で毎日の暮らしの一つ一つ、誰かとのやりとり一つずつをこなしながら積み重ねることが「美しく、ある」という状態を常に取り繕うことなく(まるでお客様が来たら、お通しする部屋以外がひっくり返っているような状態)「ある」ということなのだろう。

それが等身大ということだし、ありうべき自分の実践だろうと思っている。

以前はフェイスブックを通して仕事の問い合わせが多かったので、自己紹介欄には、お互いが尊重しあえる関係性を構築できる方とエレガントな関係を構築してビジネスがしたいと書いていた。

文章のやりとりだけではわからない、という人もいらっしゃるけれど、私は結構いろんなことがわかると思っている。まず、ビジネスの姿勢はどんなメールアドレスで、自営業なら独自ドメインかどうかで判断できる。どんな言葉を使うのか。きちんと心のこもっていると感じられる挨拶をするのか、定型文なやり取りか、相手の返信が待てるのか。些少のことかもしれない。だけれどそれが「万事」に通じる。

そもそも、逢わないとわからない、なんて時は十分に語り尽くす努力を果たしていないのではないかと思う。だって恋人や家族じゃないんだから、どうしてそんなすぐ知らない人とビジネスだからってお目にかからないといけないの?って思う。こんなにいろんな通信手段がある時代に。どちらも機運が高まって「会いましょう」となるのが私としては理想的だ。

メールが必要最低限の通信文だけになるのは、お互いがビジネスパートナーとして「使える」とお互いそれぞれ判断、信頼できてから、すなわちずっとずっと先のことだろうと思う。

今までの経験上、文章での違和感を押してわざわざ時間を割いてお目にかかって、きちんとした仕事につながったことがない。がっかりしたり、残念だったり、ブチ切れたり、キレられたり、いろいろである。

ということは、文章にしても、身綺麗にしておくということ一つに取っても、常に「一事が万事」自分がそのように見受けられるという覚悟をして表に出さないといけないのだ。

わざわざ、お家の片付いていないお部屋を覗かなくても、いつも片付いているかどうかわかるひとにはわかる。

もちろん、片付いていなくても平気な人もいるだろう。だって他人の家だから。自分が通される部屋が快適ならそれでもいいなら、そういう人はそういう人と付き合えば良いのだろうと思う。

人生の時間もビジネスをする時間も限られているから、必要なことを端的にやりたい。

東南アジア周りにいて、曖昧なことや適当なことがまかり通っていくことが、快適になっていかなかった私は、結果的に自分の中にある「律」に常に帰っていかざるを得なかったのかもしれない。それが結果的に、身を助けてくれていたし、その中にあって「私」を保ち続けられたのだろうと思う。

万全だと思っていても「ケチ」がついてダメになることがあるのだもの、それでも腐らないで行くためには自分のクライテリアを落とさず、じっと欲しいカードを待てるかどうか。そのカードが来た時に全身全霊で勝負がかけられるように己を整えていられるかどうか。それこそが「一事が万事」ということでもあるし、「修行一生、勝負一瞬」ということでもある。

毎日の暮らしもビジネスも同じこと、礼に始まって礼に終わる。全てはその人を表す鏡なのだから。それを肝に銘じて今日も、また一日。