願いを書くこと、願いを叶えること。

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最後にブログを書いてからずいぶん時間が経ってしまいました。

書きたいことがなかったというよりもむしろ、それを言語化して、自分以外の誰かに語るための何かが欠落しているような感じでした。

仕事として何かを書かずにすむようになるということが、寂しいと感じることがなかったと言えば嘘になりますが、無理くり絞り出す苦しさから解放されて、全く新しい興味関心の中に自らを没入させられることの楽しさを味わう時間がかけがえないのです。

そういう毎日を過ごしているなかで、やめたことがあります。
今回はそのお話しをしようと思います。

私は言葉が大好きですし、文字を書くのが好きです。
言葉で表現することの与えてくれる楽しみとは想像力の発露でもあります。

願い事をパソコンではなく、紙に記しなさい、それを見返しなさいというハックはスピリチュアルやさんでも仕事効率化でも女子系でも色々な人が様々な形で書いてきた、ここ数年で一番拡散度の高いハックのひとつだと思います。

御多分に洩れず、私もそのハックをかなり忠実に行ってきた一人です。やらないと願いが叶わないのではないか、とうっすら思っていたのかもしれません。

紙は神に通じ、言語化することで深層意識に深く浸透していく、何度も目にすること、文字にしたものを視覚としてとりいれることも無意識化の意思決定に影響を及ぼすという説明には一理あると思います。

だからこそ、何年も欠かすことなくやってきたのですけれど。

今から数ヶ月前、「そういう時期は終わったのだ」というメッセージのような気づきがきました。

全て願いが叶ったかどうか、とか書くことで叶うとか叶わないという次元から自身が確実に抜け去ったという感覚が、心の奥底から表層にぐっと浮き出てきた、私はそれを知っていたけれど、惰性や強迫観念のようなもので続けていたことを手放すときに来たのでした。

願いを叶えるということを意識化するということは、自分の外側に出す、ということでもあります。
もし自らがここでずっと述べてきたように、宇宙と一体であり、宇宙によって生かされ、自分の意思とは常に超越した何かと連携を持って希望や未来やなすべきことが自らの「意思」として表出するということを熟知しているのであれば、自らの外に出す必要などどこにもないのです。すなわち、自分そのものが宇宙や神といった超越した存在の意思、願望の発露なのですから。

願という漢字は
「形声文字です(原+頁)。「崖・岩の穴から湧き出す泉」の象形(「みなもと」の意味だが、ここでは「愿(ゲン)」に通じ、「きまじめ」の意味)と「人の頭部を強調」した象形(「かしら(頭)」の意味)から、きまじめな頭を意味し、そこから、自分の主張を曲げず、ひたすら「ねがう」を意味する「願」という漢字が成り立ちました。」引用元:http://okjiten.jp/kanji650.html

自分の主張を云々以前の問題、自分が宇宙や大きな存在の器として生きていくときに自ら発願しつづけるというのは、当然相いれないもの。

結果として自分が神様、宇宙の器として在ることができているのだ、という安堵感は、昔の自分が一生懸命に何かを「整えよう」としていた名残を一つ手放せた証なのかもしれません。
今の私はそういう経過を経て、美しく宇宙と調和した有り様に整っていると心穏やかにそれを感じられているのが良いのかもしれません。

もちろんこのような三昧に到達できているのは、パートナーのおかげでもあるし、それこそ何年もそうやって願いを書き続けてきたことにあるのだとも感じつつ、これからはより宇宙と一体化して願いというものが自分の人生や生き方と一体化した状態を楽しむつもりでいます。