「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは葉隠聞書の有名な一節だけれど、武士と言う職業として「生死」の境を常に感じ行った一言なのだろうと思う。
いろんな解釈があるけれど、私は「生きる」と言うことをより深く考え、「生き抜く」ための「死」を見つけたのだろうと思う。
こんな風に感じるのは、日本から遠く離れた常夏の国で侍映画ばかり見ているからかもしれない。笑
どうしても生きて戻りたいと言う姿勢は「死なないで戻る」と言う手段を考えるからだ。
そんな状況では、武道の稽古のようなきれいごとではなく、相手に泥をかけてひるませて叩き切ることも「生きて帰る」ためには必要なのだから。そんな「藁をもつかむ」想いで日々を生きると、くだらない間違ったものを掴むこともあるし、千載一遇の機会をつかむこともある。
いずれにせよ。私も「藁をもつかむ」想いで日々を生きて、笑ってしまう程しつこくその藁を手放さなかった人間だ。
私には生きて帰って待っている人もいなかったけれど、何かを全うしたいと言う想いが強かった、のかもしれないし、ただただ、人の何倍か我慢強かっただけなのかもしれないし、ただの阿呆なのかもしれない。
侍映画の重たい話ではなく、今回は「食べる」話と心身との関係について。
日本を離れる時間が長くなり出してから、薬品の入った食材に敏感になり、身体がノーと言い始め、人工調味料も受け付けなくて、外食も湿疹のかゆさ覚悟で行ける店を選んで行くようになってもう5年以上になる。
気をつけても気をつけても治まらないかゆみには本当に閉口し、醜い患部もストレスになった。
今いるこの国でもあまり改善は見られないでいたのだけれど、パートナーの食生活がどんどんと変化し、私が前の国にいた時と同じ、一日一食になってしまった。元々あまり飲まないお酒もますます減り、デザートやおやつがテーブルからなくなった。
「18時間断食」をすると、お腹がすいてから食事をするので、身体にも良く、体調が良くなるので精神的にも安定すると言うので一人ではずっと実践していたけれど、これに「糖質」を控えると言うのが加わった。
以前、周りの人がこの糖質制限でお肉ばかり食べていると聞いて、何だかバランスが悪いなぁと思っていた。
炭水化物や甘いものをぐっと減らすことで驚いたのは、「糖質はこんなに眠くなるのか」と言うことだった。食後すぐに眠くなった経験などない私が起きていられない程の睡魔に昼間から襲われるようになったのは糖質を減らすようになってから。
お肉を食べると身体が重いと言うのは思い込みだったのかと言う位、お肉も普通に食べられるようになった。
お腹がすいて、食べるのが楽しみになるから、その日一日の食事(ほぼ一食)をとても大事に楽しみにするようになったとも言える。
そんな生活に慣れてくると「食べると言うことは死に近づく」と言うことだと話し合うようになった。
それほどのエネルギーを「食べる」と言う作業は身体に課している、まさに体感する一方で、気をつけていると思いつつ、どれだけ無防備に無自覚に身体に入れていたのだろう。人間の身体は食べたものから成り立っている。
自覚的に食べて行くことで、自分の身体とより深くコミュニケートできるようになって行く自分がいた。
もちろん、炭水化物や糖質が悪いと言うのではない。相変わらず、チョコレートはついつい手が出るし、おいしいパンやお米もいただくけれど、今までのような量を身体に入れることは決してない。楽しんで、八分目程で止めるのだ。(単にその後、眠くて何も出来なくなるからかもしれないけれど。笑)
食べないで70年程生きていらっしゃるヨガの行者さんもいらっしゃるし、日本では食べないで数ヶ月過ごした俳優さんも話題になっていたけれど、私は死に近づこうが、生きるために、楽しみ、味わうために食べると言う行為を続けたいなと思う。
パートナー曰く、「食べたいものを食べる、身体の欲しているのだから最善。」
その通りだと思う。
食べるものに迷いがなくなって、改めて出来るようになったのは「長めの咀嚼」である。
食べるテンポと言うのは一緒に食べる人がいると意外と重要で、ようやく長めの咀嚼が上手くできるようになって来た。
感謝しながらかむ。飲み込む。
今まできちんとやっていなかったことを後悔する程、身体の中から澱が出て行く契機になった。
半年以上続いた湿疹も口に入れるものと入れ方を整えて、ようやく完治。
よく生きると言うことはよく死ぬこと。
そのための心身の整え方にもきちんとしたベースが出来た気がする。