Twitter位からはじまって、Facebook、InstagramやPintarestなどなど、スマートフォンやパソコンをあけるとSNSを数珠つなぎに使う人も少なくないと思う。
昔は私もそうだったなと思う。数年前は定期的にSNS疲れに陥って、もうみたくない!みたいな気分になることもあった。
今はリア充なおかげで?あまりSNSに執着もしていないけれど、それにはリア充以外にもうひとつ理由がある。
SNSの使い方を変えたのだ。
SNSをみるのがイヤになっていた頃は「誰かとつながるツール」や「何かを伝えるツール」として使っていた。
実際にあわなくてもつながる、というのは便利な反面、見えない束縛を自分に課すことにもなりうる。
だからイヤになる。
誰が何をしているのか、どこで誰といるのか、何を食べたのか、そんなに興味があるのだろうか。
そこから流れてくる写真は自分の基準で楽しくて美しいのか。
そうでもないことが多いから、面倒にもなる。
それなら、自分のみたい物が常に流れてくるようにアレンジすればいいのだ。
今いる場所にしばりがあっても、オンラインでは世界中どこへでも行ける。ギリシャ、イタリア、オーストリア。山の上でも美しいサンセットを砂浜でみることも。
日本の美しい寺院でも好きなブランドのお洋服でもなんでも。
自分の美意識にあうものや人をフォローしていくとそこには「自分が美しい」と思うものが満ちてくる。
もちろん、大前提として「自分にとっての美しいもの」がわかっていなくてはいけない。
それがわからない人にとっては、タイムラインにそれを映し出すことで自らを知る作業にもなりうるかもしれない。
この国に来る前、一人大きなデスクに座ってSNSのタイムラインから流れてくる美しい景色やモノ達でどれだけ癒されていたかわからない。イメージできる世界が広がり、自分がまるでそこにいるような感覚をもてるようになったことに随分と役立ってくれた。
インスタグラムやピンタレストといった写真、画像が中心のものは、全体でみることによって自分の美しいもの、好きなものに対する全体的な傾向を掴むことも出来る。
自分の意識を包括的に客観視するということはなかなか文字などを通しては難しいので、これまた面白い。
足を踏み入れるには敷居が高いと感じる世界もSNSの中ではもっと気軽なものであっていい。そこでならしていればいつかその現実が自分に近づいてくる。
SNSのタイムラインは自分の思考の反映だと思えばいい。不安が多い人は不安になるようなものをたくさん選んでいるし、仕事や営業用ツールだと思っている人はそのような記事で溢れているだろう。そう思って自分のタイムラインを見ていると、そこには「他人の動向」でもなんでもない「私」がある。
「ありうべき世界」を一番シンプルに具現化できる場所。それが実はSNSのタイムラインではないかと思っていたりする。