科学技術がますます進歩し、国の境がなくなっていく。
国の境をまた取り戻そうという動きやたくさんつけた機能が「いらない」となってシンプルさが喜ばれていたりする。
人間や社会はいつだって「より良い状態」という意味での「進化=化けることで進み続けること」を求めている。
人間が地球の上でいろんな仕組みを作り、ものを作りして来た連綿時間の中でこれほど「煮詰まっている」という感じがするのは今だけなのだろうか、新しいパラダイムの模索の中でルネッサンスなんかは生まれて来て大きな風潮へと変化をしたはずなのに、古いものを「焼き直し」としてしか見いだせないのはなぜなのだろう。要するに、なぜ「美しく」ないのか。
パートナーが古い書画や車のサイトを眺めては「今はもうこんなの作れない」と嘆息しながら言う。
当時の作り手の息づかい、卓越した技術、手仕事を彼は常に賞讃し、彼らとともに生きた人のようにそのスタイルと有り様を理解する。
確かに、それらには「美しさ」と「重厚さ」はあっても「軽薄さ」みたいなものはない。
彼らも今の職人や作り手との想いにちがいはないはずだ。だけれど何か決定的なものが違っているような気がする。
若い頃、生まれてくる時代が遅すぎた、と感じることがよくあった私だけれど、何が「早すぎたり、遅すぎた」と感じさせていたのだろうか。
人の営みや作り出すものの「行程」には大きな差はない。それは先進国であれ発展途上国であれ、時代であれ程度の差なのだ。では何が決定的に違うのかというと、「ありうべき世界」というものをもっているのかどうか、なのではないかと思う。
「世界は美しくあるべきだ」という絶対的に揺るがない何か。それは「ユーザーの利便性」だとか「マーケティング」とか「コスト」を絶対的に凌駕するものであるはずで、そういう「グランドプラン」がないと結局は「手先」の技術でしかなくなるのではなかろうかという結論に達する。
国の有り様だって同じことが言える。こうあるべきだ、というグランドプランを提示する北の大国のリーダーが世界中から羨望と注目を浴びているのは、今多くの国が国民のニーズやウォンツ、海外からのそれらに汲汲と振り回されているからこそであろう。
日々の生活を大切に生きること、小さなことに感謝することの大切さと同じ位、大局でのありうべき姿、自分の立ち位置を見つめなければ日常はただの「毎日」となる。
私が十代のとき、留学した国から去る直前、「彼らは生まれて死ぬまでこうやって毎日、一年を暮らして年老いて死んでいくのだ」ということに気がついた。私はそんな風にして生きていくことは出来ない。彼らと自分のちがいを決定的に感じ、別離を決めた瞬間だった。
「進化」という「美」を「グランドプラン」としてもち続けていることが日常の手先指先からこぼれ落ちる技術となりうるのだということを古いものは教えてくれる。
「インスタント」で「手先器用」な世の中にあって、古いものを見直すということは実は過去の再評価を通じて未来すなわち、「現在」の「グランドプラン=ありうべき世界」を模索しているということになる。
美しさというのは何も美醜だけを言うのではなく、その姿勢を指す。
常に「ありうべき世界」を模索してそれを日常ににじませる、そんな日々を送り続けていきたい。
それが未来へ大きな寄与となる一端になると確信しながら。