数日前に絶望をしっているものが強い、というはなしをしていて。
絶望を知っているということがどう強いのか、というと「くるりと向きを変えられる」ということなのだと、ある人の著作は教えてくれる。
絶望それは「望みを絶たれた状態」。私が幾度となく感じたし、出来ればもう二度と味わいたくことはない感覚だ。
私にはずっと不思議だったことがある。余りに毎日苦しくて仕方がないのに、「前向き」で「明るい」と思ってくれる周りの人がほとんどだったこと。どれだけ「絶望」をしていたとしても、「希望」と「なすべきこと」を捨てなかったこと。
今思えば、どうやってやり過ごして来たのだろうと思うけれど、それはすなわち「絶望」という底辺にいればこそ、私はいつもそこから抜け出すための何らかの「希望」や「なすべきこと」を結果的に無理矢理握っていたのだろうと思う。
その循環が私を今の状態まで引き上げて生きながらえさせてくれたと言ってもいい。
自分のネイチャーとして自分の魂に感謝しているのは、「絶望」の中で「希望」や「なすべきこと」を決して捨てなかったということだ。自分の魂が純粋に美しく、望ましいものを諦めない魂としてこの世に生まれたことに感謝しても仕切れない。
前にもこのブログで紹介したことがある、「パンドラの箱」のエピソードは私の幼少からの気に入りのエピソードだ。パンドラの箱をあけると様々な悪しきものがごっそりと封印を解いて出てくる。
だけれどその悪しきものが飛び立った後、「私を出して」という声がする。
その声の主に名前を聞くと、「私は希望」そう答えた。
何度も何度も読んだこの物語が、もしかすると私の深層心理から支えてくれていたのかもしれない、と今は感じる。
そしてそれが正しかったということも。
たくさんの絶望を知った後でしか味わえない甘露があるのなら、それを味わってごらん、と、とっておきの器に入れて目の前に置かれている。
絶望のさなかにあった長い時間、こんな時が来ると想像もできなかった。
だけれど、希望を捨てず、なすべきことをしていたおかげで今がある。
こんな風に生きて来られたのは、私の意思というよりむしろ、魂が「止むに止まれず」私を導いた結果なのだろう、と今は確信している。ということは、私はずっと前から「カミサマノイウトオリ」に、それがいかなる道程であったにせよ、魂に導かれるまま歩いて来ただけなのかもしれない。