カミサマノイウトオリ、バージョン2.0

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カミサマノイウトオリ(カミサマノナサルヨウニ)、というのは私の行動指針のひとつ。

カミサマノイウトオリ

カミサマノイウトオリにズルはなし

昨日夜、久しぶりにゆっくりパートナーとはなしをしてリラックスしたところで、その日に読んでいたいくつかの記事に同じセンテンスがあることにはたと気がついた。

「私とは「私」=「我、エゴ」意味するのではなく、その後ろにある宇宙そのもの。」

同日に日本語だけではない、4つの媒体から同じ意味の文章を受け取ったのは「このことを考えて受け止めなさい」ということに違いない。

滅私で生きる、すなわち「菩薩行」という人間的な感覚にとらわれずに生きることを思ってから、ずいぶんと思考も削ぎ落とされ、心が穏やかになっているのを感じた。自分が「菩薩行」を実践して生きているということすら、失念するほど身に馴染んで、それが当たり前になっていった。

当然ながら、私が宇宙そのもの、というのは別に自分が神や宇宙、菩薩の存在であるということを意味しているのではない。

では何なのか。
その答えの糸口が私の好きな「六根清浄大祓」の中にある。
六根とは自分の身、体を指し、それを清浄にするための祝詞である。

何を見聞きし、触れようとも心がそれによって穢れることがないという内容に続き、六根清浄だということは、五臓がやすらかであり、それであるが故に天地の神と同根であり、万物の霊と同根であるという箇所がある。

滅私でとらわれることなく、心身清浄に、世の中の愛と平和に生きるということはすなわち、結果それこそが「私」であるという大乗的な世界観でもあるのかもしれない。

私が目にしたそれぞれの文献の文脈ともそれほど大きく外れていないとも感じられる。

私は20年以上この国で小乗、自分が修行して自らを高めることにより、そのたどり着いた領域から世の中を変えられるのであれば、それが最善だと信じて学んで来た。自らがまだ修行の途中で人をすくうことは不遜だという思いがいつも心を占めていた。だから自分を高めなくては。自分をそんな風に追いつめていた。大乗のイメージは簡単に言うと、「南無妙法蓮華経」といえば、みんな天国に行ける、都合がいいものとしか長くとらえられていなかった。

「カミサマノイウトオリ」に生きる、「カミサマノナサルヨウニ」想い、行動するという自己規範はそこから生まれる深い愛と感謝で私の心を穏やかにしなやかに強いものにしてくれた。それこそが「私」なのだという帰結を今教えられることの有り難さとタイミングにいろいろな感情が去来する。

それこそが「大乗」的な観点での「私」でもあるとも併せて気付けたことはまさに、宇宙とのつながり、大いなる存在達が私の後ろにいて、それこそが「私」への福音である。

感謝にも愛にも必要なことは「受け入れる」と「与えること」だと思っている。

「カミサマノイウトオリ」に「カミサマノナサルヨウニ」と思い始めてから今日まで、間違っていなかった、血となり肉となったからこその、2.0へのバージョンアップ。これからも気負いなく、この道を歩んでいく。

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