愛と受容が生む変化という安らぎ

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多くの宗教の言葉には「言葉が最初である」と記されています。

「心」や「魂」あっての「言葉」だろうという方もおいでですが、体感として「言葉が最初」というのは真実な側面もあると思います。

先にエクスキューズをしておきますと、私はソーシャルメディアでよく見られる、「なんにでも、有り難うございます」を言っちゃうのは若干苦手だというのは前に書きました。「書いたり、言ったりすりゃいいってものではない」とは思っています。

実は今私のいるこの国の人は「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えない人たちが主体です。「こんにちは」って言葉もできて何十年も経てないのだからしょうがありません。「飯食った?」「どこいくん?」が挨拶なのですから。

神仏やご先祖様に毎朝毎夜、1日のお礼やご挨拶をするうちに、ふと思い立ってボスのご先祖様にも挨拶するようになりました。いろいろ言いたいことがあるボスですが、ご先祖様に挨拶するようになると、電話が鳴るたびに「こんにちは、ボス」「有り難うございました」というようになりました。

言いたいことはいっぱいあるので、何年もそんな丁寧さは半減させて接して来たように思います。要するに、気持ちは当初さほど伴っていませんでしたが、そうやってかれに話しかけると心持ちいろいろなことがスムースにいくようになってきました。彼に対する言いたいことは減りはしませんが、私の感情も思いのほか和らいだような気がします。ボスも私に多少優しくなった気もします。言葉は少なくとも自然と柔らかで丁寧になりました。声を荒げることも。

「ありがとう」も「ごめんなさい」も言わないこの国の人たちにそういうことの大切さを教えながら躾けてきましたが、残念ながら、心の持ちようまで変わるところまで確認できなかったのは残念なところではありますが。

「ただ、そういっておけばいい」「言えば幸せになる、幸運が舞い込む」では変わり様もありません。

「褒める」「感謝する」「愛を伝える」これは伝えられている相手からするとただの「言葉」なのかもしれません。ただ、この3つの持つ波動の強さはそれを相手がそれを受容した瞬間(それは発する自分がその言葉自体を受け入れるということも含めて)、「ただの言葉」から「大きな力を携えた波動」になり、「言霊」となって自分と相手の中に入り込んでくるのではないかと感じます。

言葉の持つ音と意味が対となり、それぞれがお互いのパワーを高めあい、開いた魂の中に注ぎ込まれていく。

これが「愛」を伝えるということなんだろうと思います。

このつながりこそが「愛」だろうし、「変化」を生み出すすべての根源なのだろうと言うことを今ひしひしと体感しています。

そのつながりの清涼感はどんな荒んだ都会にいても一瞬に森林の奥にある滝へと連れ出してくれるような、魂の安堵感をもたらすべきものであって、そのためには多少なりとも時間も自らの修練も必要となりましょう。

「言霊」と「数字」の持つ意味の大きさはその変化を体感しきらないとわからないのかもしれないと思います。(私も数字はこれから修練にはいります)
大切なことはこれらはいずれも目的であってはならなくて、最終的に望まれる結果、なのだろうとも思います。だから一人心静かに、決意を持って誰に説明するでもなく、ひたすらに菩薩的な愛を持って行う結果、たどり着くこともあろう場所なのだろうと。

実感を伴わなければ、変化は感じ取れません。

自分にとって大切な人。そこがスタート。続ければ続ける程、世界は愛に満ち、望む世界が間近に近づいて次元変化に対応する心身が培われるのだろうと思っています。

先日のタイムラインで(男女が)融合した原点にゼロ磁場が生じるという話を読みました。役割の違う二つの存在が差異を超えて融合する所こそ、エネルギーの発露。正しく対(陰陽)がくみ合わさった地点には時間軸も差異も存在しない。ただそのものとして「ある」。

こんなに素晴らしいことはないなぁと思います。
信頼と真実の証といっていいのだろうと言われている気がします。

だからこそ、その一対が発するエネルギーは美しい世界の創造に費やされるのです。

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