自分にとっての本質とはなんなのか。

2014-10-26 11.41.21

ここのところ、いろいろなレベルでのインプットが多いせいかアウトプットがスムースでなく、いつもならタイミングでポンポンと書き出してしまうことですら、なんだか文字にするのに迷いがある。話すことですらすべてが「出しゃばっている」ように感じるので、誰かと何気なく話すこともいつもよりも話したあとの感じが悪い。そういうときは言わなくていいことを言い、相手の顔色ばかりみているのもわかる。

日々の記録も含めると結構な量を書くので2日ほど滞ると結構トレースするのが難しく、ブログも書き連ねてそのままのもの、描き終わってボタンを押すといい感じでかけた部分以降がすっぱりとなくなっていたりするので時期ではないのだろうと思って放置している。読むよりも書く方が無理ができない。

私は本質を問うことを自分の中で大切にしている。無意識だけれどもいつもそれを結果的に問うているのだと思う。だから心が動かない、納得できないものは相手やそれを大切にする人の立場にとってありうべき姿を追求する。多面的な理解。

私は家族の中でスピリチュアルな人間でも宗教的な人間でもないとキッパリと言われていた。理由は簡単。関西人が大好き?なお墓参りがものすごく苦手だったからだ。今もあまり得意ではない。母の納骨の際も母が生前いっていた「一心寺さんに」というのは「そんなの聞いたことがない」と一蹴されたけれども、近場だったので結局そこにしてくれた。

彼女の複雑なバックグラウンドや心を通わせられたとは言いがたかった父方の祖父母を思うと、お墓参りにシンパシーが持てないでいたというところが正直なところなのかもしれない。いきていたという事実がなんだか物事を複雑にしている。私はだからそういった縁とできるだけ遠いところにいたいとどこかで思っていたのだと思う。

この国なんかはよほどの家系や中華系でない限り、亡くなった先祖の墓に彼らをたずねるということはない。墓すらない人も多い。川に散骨したり(母は本当はイルカになりたいといっていたので海の散骨もいいといっていたっけ)、寺院の壁に名前と骨が刻まれたり。シンプルでいいなぁといつも思っていた。日本での住まいが日々のお参りみたいなことが日常しっかり行われる地域だから、やれお彼岸のお菓子がどうだとか、なんだか本質ではないところが苦手だったのかもしれない。

ただ、最近になって無性に連綿とした命の流れみたいなことを思うようになった。一人いきて一人死ぬというこの国で心底体感し続けて来たものに、もっと長い時間軸を感じるようになった。だからといって、疎遠だった人たちに打って変わって心新たに手をあわせられるかというとそうではない。

そんなときに教えてもらったのは、連綿とした男女が互いを愛おしいと思いあう連続をへて自分たちが今存在しているということを思い、感謝していけばいいのではないかということだった。私のように血縁にはほとほと縁の薄い人間が「先祖」という存在に感謝できるとすれば、そういう説明が一番腑に落ちる。「家」は「血」を表すけれど、それを感じないでいる人の連綿とした生き様の方が自分にとってシンパシーがあったり、感謝があったりする。そういう人生を生きて来た私にとっては「それでも」手を合わせて感謝したいと思える何かをそこで見いだすことができたならそれは幸せだと。

どこにいるかわからない私に母の分骨してほしいというのをかたくなに断った父の気持ちはわからないけれど、もっと違うレベルの気持ちで私は毎朝手書きした先祖代々の名前に手を合わせ、水と線香を手向ける。
神仏に祈っていたときとは全く違う感覚が身を覆う。

一人いきて一人死ぬという事実に時間軸が加わることで、決定的な孤独は回避されるけれど、自分はその先をつながないのかという自責の念に駆られないこともない。だけれども、「家」や「血」に固執しないのであれば、また「命」をつなぐということが新しい生命だけを意味しないという選択肢がもしかしたらあるのかもしれない。

自分の今生での責務を考えるたびにそういう選択肢を選ばなかった、選べなかった自分も許して理解してやるべきだろうと思う。ずいぶんよく悩んだし苦しんだし、誠実に対処したもの、と。また別のお役目があるのであろうと思うしかない。

そんな中で、「生きる」ということを考える。そういうことを考えながら「美しく」生きるということは結局、心身を美しく清浄に保つということと近しい気がする。それを自分の子ではなくても伝えていけるものとして学んでいく。本質はなんなのか、ということを。

「買ってはいけない」「使ってはいけない」と声高に叫ぶのを聞き、ヒステリックになるのではなく、自分が連綿といただいて来たこの身体を持って、「清浄である」ことに注力すると選択されるべきものは自然とわかってくる。これが本質なのだろうと思う。

美しいものを美しくあるためにありがたくおしいただく。
身につけるもの、体内に入れるものすべてがそうであってほしいと思う。

エキセントリックにではなく、自らの心身をアンテナとして「欲するもの」「ありうべきもの」を「ありがたく」といういき方こそが本質なのではないかという気付き。

そこには主義主張も肩肘張った何かも、陰謀論も社会批判もない。ただ連綿と続く命のリレーの中で自らが美しくありうべき姿を追求し、するべきことをするということに尽きる。

これもひとつの対の法則なのだろうと思う。「今を生きる私」と「連綿と続いて来た命」という対。「生きながらえるということ」と「生きながらえることで次へ残す」という対。

この二つの本質的な対が絡まりあい、昇華されていくのを感じる。

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