対の法則

2014-10-09 09.33.48

正負の法則というのは神田さんの「非常識な成功法則」をはじめ、美輪明宏さんだってスピリチュアルな視点から正負の法則の話をされていると聞き及ぶ。

どこの国だったか失念してしまったが、正負の法則を日常的な意識レベルにまでもってきているので、いいことがあるとわざと悪いことを起こすのだという話を聞いたこともある。

端的に言うと、陰陽だろうけれど。

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黒と白で描かれているから、どうも善悪と理解してしまいがちだけれど、陰陽とは善悪ではない。この一対を持ってひとつの構成要素として「完全」さを示すものがこの図なのだと私は理解している。

私の好きな仏教用語で「相即不離」という言葉がある。以前も書いたことがあるかもしれないけれど、その二つがぴったりと引っ付いてはなれない状態を示す。属性は違っていても自らが持たないパーツをしっかりと補いあうものがそのもう一方に存在している。そのことによって自分がより伸びやかに活き、相手も自分の存在によってさらに輝く。それこそが「相即不離」な状態であり、私がつねに想い目指す「完全な一対」なのかもしれないと最近強く思う。

正負の法則は陰陽と同じ対なのかと言うと、どうなんだろうなぁというのが今まで人生を生きて来た中での実感である。高みを望む者、望まない者、前世の縁。人生といういつ終わるかしれない成長(とあえて言いたい)を続けている中で短いスパンでの正負は見分けられたとしても長いスパンでのそれをどうやって理解するべきなのか。正負どちらかが起こる前に人生が終わってしまったら?死が法則の正か負いずれかを担うのはわからなくもないけれど、納得するには根拠が弱い。

だけれど対という法則に鑑みてみればどうだろう、と最近思っていろいろと考えを深めている。もちろん正負の法則も何らかの事象なり人なりすべてが対であるという考えの中に包括されると言ってもいいがこれがすべてではない。

大事なことは「いいこと」が起こったからその反対の「悪いこと」が起こるのでバランスをとるという考え方よりむしろ、その「いいこと」と正しく対になる出来事なり存在なりを見つけてセットで考えることができるかどうか、これから起こるであろうを価値づけていけるのかどうかなのだろうと思う。

そうでないと「幸せ」「満足」を得ることでどこかでいつも「不幸せ」や「不満」を感じさせることが出てくるということになってしまいかねない。

望ましい状態が連続して続くことを「幸せの連鎖」と言うけれど、それは上手く「不幸せ」と感じないものやことでバランスをとるからこそ、「連鎖」というサイクルが回転していくパワーを起こすのではないかと思う。

そうでないと、苦労してやっと手に入れた大きな幸せなり存在を失う不安にいつでも苛まれていけないことになる。そういうの、私は耐えられないし、それがイヤだからずっと一人でぎゅっと縮こまっていたのだろうとも思う。

今はその「対」の法則を持って多くの関係性や出来事を分析していくことで、正しい「対」の相手をとらえて出来事に対処することに注意を払うようにしている。

そこには次元上昇といった概念にもきちんと連動されて、自らの今生での役割やなすべきこと、共になす相手も理解できる鍵があるように感じている。

「屁理屈」なのかもしれないし、ただただ、今起こり続ける様々な出来事に対して自分なりの「意味付け」をしていきたいだけなのかもしれない。だけれど、今わかっているのはその陰陽や対の概念での対象物を間違えると、いつまで経っても状況はよくならないし、連鎖を引き起こすことにはなり得ないということだ。

それはそうだろうと思う。磁石でいうところのプラス同士、マイナス同士ではぴたりと引っ付かないのだから。
これを「まぁ引っ付いてるよね」ぐらいでいくと、それは相即不離による一体化のパワーを生み出さないので連鎖にはなり得ない。

だから「これかな」と思っても安心せずにチェックをして「これだね、間違いない」というところまでいかないといけないし「まあいいか」で終わらせないことが連鎖を生み出す原動力となる。

対の法則はまだ自分の中で考え始めたばかりなので、思索と自分の人生を使った体当たり実験でまた何か気付きがあれば、そのときまた。

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