おかげは陰(かげ)に御という漢字をつける。
御陽はないけれど、御陰なのだ。
御陰というのは神仏や他人の加護、助力によって何事かをなし得るときにその言葉を使う。日本語って言うのは素晴らしい精神性を表現した言葉だ、なんて美しいのだろうと改めて思う。
陽のあたる自分の実績ではなく、後ろや下の部分で見えない尽力をしてくれ、成功に導いてくれた存在がなんにでもある。それを表にだすというか「その尽力、加護により」何事かを成し遂げられたということを示す。
何かと言えば、自分がなし得た実績や成功をショウオフしてしまうしてしまいがち、望んでいた成果ならましてやそうであろう。
優れた経営者が立派であると言われることの由縁はその「御陰」の存在をよく知ることである。自ら一人では何もなし得なかったということをよく知るからこその「御陰さま」なのである。
もちろん、陰の存在が自分でショウオフすることもこの世の中少なくない。だけれども、そこはやはり奥ゆかしくあるのが日本人のあるべき精神性だとも思う。
あなた様のお力あってのこの成果ですと腰低く頭低く、宇宙にもカミサマにも回りにも感謝を示し、「自分がなし得た」ということよりも「御陰」としてサポートして下さった宇宙や神仏や周りの協力を忘れずにまず言及すると言うこと。
何故御陽という言葉がないのか、放っておいても「成功」という形で注目が集まるからだ。主役はあくまで自分。でもそこにあぐらをかくといつの間にか「御陰」が姿を消して成功も永続していかないであろう。バランスの問題。「自分がやった」と言わなくても自分がなし得たことは自分がよく知っている。だからこそ、いつも「御陰さまで」このような成果を得られたと言えることが私にとっては一番自分の心根にフィットしたものとも言える。
人は一人で生きている訳でも独立独歩、何かをなし得る訳ではないのだから。
滅私でカミサマノイウトオリ、カミサマノスルヨウニ、自らの立ち振る舞いをと思うからこそ、この「御陰」という言葉の深さが改めて胸に深まってくる。