自分が変わることで結果的に巻き起こる変化とその覚悟。

2014-10-14 14.24.58

自分の身近な人に堪え難い何かがあるとしよう。又は本人が堪え難い問題があるとしよう。

自分は相手ではないので、その堪え難い何か(習慣かもしれないし癖かもしれない)や問題には直接手出しをできない。
いくら自分に大切な存在でも相手は自分ではない。

変えられない。

これが現実だ。

それを心配してみていたり、イライラしてストレスをためたり、いつかよくなるだろうと楽観するのも一手だと思う。
だがその人が本当に大切なら。
自分は放っておけるだろうか。

ただ相手を非難してみたり、心配しすぎて鬱陶しがられるのもなんだか違う気がする。
すべて自分に持って来たときに、その人の痛み苦しみや悩み、その原因を自分のことのように思えるのか。
「そんなあなたが悪いの」「仕方ないわよ」

と思うなら、私の思う大切とは定義が違うんだろうと思う。
癖であれ状況であれそれは表層であって、それがおこることを余儀なくされた原因が何かしらあるはず。

それを心から感じて、取り除けるなら何でもしてあげたいと思うかどうかだと思う。
人と関わるというのはそういう覚悟があっていいはずだから。

表層ではなく根源を取り去るにはその根源にある心の問題にフォーカスしなくてはいけない。自分の心を見るように相手の心を見ないときっとわからない。その根源がすぐにわかるとも限らない。

その根源が孤独や不信、なんであったとしても行動を持って愛を示すことで相手は変わっていく。

例えばいつも優しい言葉で挨拶を欠かさない。感謝の言葉をたくさん紡いで届ける。褒める。なんだっていい。それを常に心を込めて滅私で相手にし続ける。褒めるという言葉や波動は壊れたDNAを修復する効果があるというロシアの研究があると先日読んだ。だから褒めるのもいい。それで傷ついたものが癒されていくこともある。

いやがられることも、不審がられることも覚悟で、相手がどんなに大切で素晴らしくて愛おしくて、存在に感謝しているかを伝える。病気なんかの好転反応と同じで、いやがられるときもあるかもしれないけれど、いつか何故自分がこうしているかをわかってくれる日を信じて、自分の大切な人にただひたすら尽くす。

いつこれが終わるかわからない。きっと傷の深さによるのだろうと思う。
それだけ長くかかるっていうことは、本人がそれだけ長い間苦しんで来たことの証でもある。
これは私も体験して来たことだからよくわかる。

だけれど、乾いたスポンジに徐々に水がしみ込んでいくように、行動と言葉を通じてかけて来た癒しの力は、あなたの大切な人の辛さを必ずや変えてくれる。それまで根気良く続けられる覚悟があるか、それに尽きる。

相手を変えるのではなく、自分が相手にできる限りの想いと愛を行動で自分を変えていけるかどうか。それにかかっている。
その想いが通じた日、当初の自分の願いであった相手の苦しみが取り除かれるんだろうと思う。

その過程こそが、問題の解決よりももっとかけがいのないものになるということは体験者でないとわからないのかもしれない。ただ、中途半端で生半可にやればもっと悪い結果を招きかねない。

自分に愛があるのか、覚悟があるのか。
問われるのも、変わるのも自分。
あなたとあなたの大切な人の苦しみが少しでも軽減しますように。

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