仏教おたくだったひとしきりの決して短くはない時間から少し解き放たれた時、そのコンテクストの流れの中では見えなかったものが見えることがある。
あなたを傷つける人を許しましょう。
あなたに理解のない人を理解しましょう。
相手が助けを求めて来たら、見返りを求めずできる限りのことをしましょう。
中庸っていうのは「完全なるグレーゾーン」と私は定義していて。道路の中央分離帯とも言いかえられる。誰かやある出来事が黒であろうが白であろうがそのジャッジをしないでいること。でもそこってゾーンなの。線じゃなくってね。だから黒にも白にも余地がある。黒っぽいグレー、白っぽいグレー。どれもグレーだもの。
私はこの『完全なるグレーゾーン』って言う考え方がとても気に入っているけれど、それは自分の中に自分基準の白黒がない、ということではなくて。
中庸にいて判断せず、ただひたすらに受け入れていくことで、世俗を離れずに疲弊しないでいるなんてことは難しい。それならその疲弊した自分を受け入れる先はどこなんだろう。もちろん、それにもちゃんと何かしらの説明が用意されているのは当然として。
こういった話が『うまくやってるね』と思うのは、『一連の流れ』でこういった話を聞かないということにある。『嫌いな上司とうまくやれません』「あの人の意地悪に耐えられません』『ボクの恋人はどうしてこんなに無理解なんでしょう』というのに対応するのが先に出てくるような『メッセージ』なのであって。
世の中って言うのは、そういう『あわない人』との人間関係で多くの部分が構成されているんだなぁってことを改めてこういうメッセージを読むことで感じる。
自分が大事にしたい人を大事にせず、または誰が大事なのかわからず、自分があわない人を受け入れられない自分を責めたり、相手が変わらないことに不満を覚えながら行きていくのが社会生活なら。
なんて淋しく辛いものなのかしらね。
だけどこんな『教え』なんて必要なく、大切な人を大切にして穏やかに暮らしている人だっているはずなんだけれど。そこに焦点が当たることなんてないのかもしれない。
自分がなりたいのは相容れない人間を受け入れられる能力をもった人なのか、大事な人に大事に思われて穏やかに幸せにいきる人なのか。
これぐらいは自分で選択できる気がするね。