「あんたはかわいいなぁ」と言われて育つ子と、「お前は出し殻やな」と言われて育つ子だったら圧倒的に前者の方が素直に顔立ちももっとかわいらしく育つだろうと言うのは周知の事実かもしれない。
毎日起きたら、「おはよう」と言って、帰ってきたら「ただいま」「おかえり」って言うやり取りが作り出すものって言うのは一体なんだろう。
一人暮らしが長いと、独り言が増えるというけれど、もっと長くなるといつの間にか私は言わなくなった。誰かが同じ空間にいる想定が自分の中になくなったからだろうと思う。
言葉って言うのは環境を創り出すものなんだろうなと思う。
独り言は言わなくなっても、いってきますとただいまといただきます(時々さぼる)は言う。
それは対象が人ではなくて住んでいる空間だったり、神様だったりするからだ。
愛してます、とか、ステキだね、とか格好いいとか、すごいねって言うことは単純に言葉を交わす、言葉をかける以上に意味がある。それらは「蓄積していく」のだ。
あえて書かないけれど、その逆の言葉だってそう。
言葉の威力は一発の破壊力はともかく、この「蓄積していく力」に人間関係では本領が発揮されるのではないかと思う。
カエサルが言った言葉で印象深い言葉がある「人は見たいものしか見ない」、と言う言葉だ。
相手が自分にとってステキな存在でいること、それが自分にとって誇らしい存在だと言うことは当然自分にとって「見たいもの」である。その「見たいもの」を創り出すのは自分の相手にかける言葉もその要素の一つなのだろうとおもう。
まさに仏教用語でいうところの「相即不離」(意味:関係が非常に密接で切り離せないこと。区別がつかないほど密接な関係のこと。)なのだ。
たとえいくら感謝をしていても「一緒にいると疲れるよね」とか言ってしまうと、「疲れる人(モノ、場所)」にしか見えなくなってくる。
言葉と言うのは言った瞬間、消えてなくなるけれど、「言葉にする」と言うのは行動なのだ。
相手を愛しいと見るためには愛しいと感じている言葉で、心を込めて。
相手が自分でも同じことが言える。
私は自分にずいぶん厳しい言葉ばかりかけてきたけれど、最近、「あなた辛抱強いねぇ」とか「よくいろんなことが見えてるね」と評価してみる。そうできるのも私にずっと思いやりの詰まった言葉をかけてくれる人がいて、私の中にしっかりと蓄積してきたからこそ、の変化だと感じる。
その蓄積のおかげで、私は次第に迷いがなくなってきたように思う。
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簡単な実験で「ありがとう」とか「愛している」と言い続けた水や植物と、「バカ」とか「嫌い」とか言った水や植物だったら創り出す結晶が違ったり、腐食の度合いが違ったりすると言う実験を見たことがあると思う。
水に小石を投げたときに広がる波動のように、その言葉がその空間や相手に波及し、その空間や相手に影響を与え続けると考えるとその大切さを一層強く意識しなくてはと思う。
小さく起こった波が起こす影響はリアルタイムではなく、波動がどんどんと広がるに連れて離れた先にある船を揺るがす動きになるような感じで物事って言うのは変わっていくのだろうかという仮説を今立てている。
視界が変わるのは船が揺れた時。
その結果が分かった時、どの波が何を起こしたのかを私は知ることができるのかもしれない。
(とはいえ、視界が変わることこそが目的なのだからどの波であれ構わないと言えばかなわないのだけれど。)