昔はたくさんの人に祝ってもらったりしたけれど、今年は誰にも会わずインターネットにも接続しないでひたすら己とカミサマと対話した、誕生日。
一瞬刹那のどの瞬間で命がなくなるかわからないのに何を夢見て生きるのか、と思っていた自分が「いきていく」という前提で人生を再構築していくと今まで考える必要がなかったことに自分なりの答えをもっておく必要がある。
今までの定義でいいのか、生き方と生きたいと思う方向に齟齬がないのか、考えていることに矛盾はないのか。
今までは「諦めて手放す」ことで自己解決を図っていた物がそれだとなんだか本質から外れてしまっていたりする。
その一方で、煩悩のない、悲しみのない、安心できる世界に行きたいという願いは途絶えることはない。
「生きていく私」を選択するということは、それらを乗り越えた境地に生きたままたどり着くための何かなのか。
自分のおかれた境地を鑑みる。
去年の今頃私の眼前には「死んだように生きていく私」と「生きていく私」の選択肢があった。この道の先には何があるのか自分では皆目わからない世界を私は選んだのだと思う。
自分の知らない感情、見ないようにしていた思い。「生きていく」ということはこういう感情や思いが胸に交錯して毎日を過ごすものなのだと一年間思い続けてきた。
そのリアルさ故の苦しさや孤独感や幸せや満ち足りた感情が自己の「ありうべき姿」と上手くより寄り添えないときの苦しさは、孤独に最後の1日までを生きながらえるのであれば感じることもないものであったろう。
そんなことよりも生身の人間として味わう感情の豊かさはかけがえのない深いもので、はじめて味わうものへの戸惑いよりもシンプルな喜びに自分が包まれることを知った。
私の選択は間違っていなかった。
今までの人生ではどれほど自分が今この世界に生まれてきた価値があったのだろうかと思う。ただ生きながらえている、ということはこの世界に何か役割を果たしたということとはほど遠い。
ローマ世界を作り上げたような歴史的な偉人程の働きはできないとしても、せめて今生、生あるうちに私がやるべきことは「生きていく」私でしか果たせない何かなはずだ。魂だけの存在ならば容易にできることを、生身の私として実践すること。
要するに見返りを期待せず、惜しみなく、美しく生きるということに尽きるのだから、表面上は昔と変わらないようにも見える。だが全く異なるものである。
今までの人生と透徹した信念と愛情をかけて創り出されるものをこの目でみてみたい。