「どちらにしようかな、かみさまのいうとおり」
子供の頃から何度も唱えた何かを選択するためのこのセンテンスほど深いものはないなぁ、と数年前から思うようになった。あみだくじでもコインの表裏でも、それは偶然という名前の自分以外の意思に選択を委ねようという姿勢で。
人は『どちらにしようかな』と口にする時、明確な自分の選択肢がないニュートラルな状態にあるのだけれど、このセンテンスを言い終わるとき、それは意識の表層にあがっていなかっただけなのか、それとも本当にニュートラルに自分が決めるための決定打をもっていないかを知る。
選んだ指の先にある答えに躊躇を感じれば、それは心の奥底で自分のいくべきだと思う方向性があったことを意味するのだと思う。
そんな自分の心の奥底を知るためにも『カミサマノイウトオリ』と指を動かすのは悪くない、そう思ったりしている。
いつのころからか、自分の意志とかを超越したところに自分の身を預けて生きられたらいいなぁって思うようになっていた。
自分の身の回りのこととか生活とかのためではなく生きられたら、いいのにと。
本来の意味での『カミサマノイウトオリ』って言うのはそういうことなのではないか、と思う。
出家だとか神に仕えるとかそういう方向性と全く違う。今もって生まれたこの自分という器を神様に最大限使ってもらう。何をするべきなのかとか、何が正しいのかとかそういうジャッジは全部示された目の前のものを淡々と受け取っていく。
自分の心身がクリーンでないといけないだろうし、自分の身を預ける覚悟がないといけなくて。
覚悟があったとしても「こんな私でよいのかしら、大丈夫なの?」とついつい自分を卑下してしまうことも多々ある。
出家することも何かの宗教を旨として生きることからも解放されて自分が社会の中でするべき役割ということを考えたときに、この選択肢が目の前にあって、そういう風に生きることを選べる状況にあることこそが『カミサマノイウトオリ』に生きなさいということで。
私でいいんだねぇ、と思っていいんだということになる。
だからちゃんとそのメッセージが自分に届く状況を整えて、メッセージ通り行動できる自分にいつもいるかどうかは自分次第だから。そういう自分のポテンシャルはいつもあげていく努力をしていけばいいだけで。
何言ってんだいって感じのはなしなのだけれど、ようやくたどり着いたこの心境と環境にようやくなじんできつつあるから、心穏やかに。