孤独だといろいろわかっていいよ。みたいな記事を見たときに、一理あるけどなんだかむずがゆい感じがした。
ずっと長い間私は「誰かといるのに孤独」というのを感じてきた。
残酷な淋しさなんだと思う。
一人で長くいるようになると、誰かといるのがおっくうになる。
自分でやった方が早いし楽だし確実だし、がっかりしない。
独立した人間っていうのはそう言うものなのだろうと思う。
わざわざそのメリットを書き出すまでもないぐらいのことなのだ。
そんな人間が誰かといるという選択をするということはよっぽど「その誰か」といることが一人でいるより時間よりも素晴らしいということなのだと思う。
1983年に上映された、「愛と追憶の日々」はシャーリー・マクレーンとジャック・ニコルソンの年を取った二人の恋が一つテーマとして描かれている。
この物語の中で、恋愛が燃え上がって落ち着きを見せ始める頃、ジャック・ニコルソン演じるギャレットは、彼女に別れを告げる。「二人でいる時間」があまりにも素晴らしすぎたことが、失う不安を感じさせた結果、彼は別れを切り出したのだろうと思う。
あまりにも幸せすぎると、もう昔の「孤独」だった自分に戻れない。
ギャレットはそれが怖かったんだろうと思う。
エマはその気持ちがわかるからこそ、あえて彼を追わない。
彼女の中にも同じ気持ちがあるからこそ、追えなかったのかもしれない。
孤独を深く知るものが誰かといることほど、覚悟が必要なことはない。
白州次郎は正子に彼女にこういう一節をしたためている。
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You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals.
寂しさとかありがちな感情を乗り越えた後に孤独の中に得た平安を捨てて、誰かといるということはその相手が自分にとってこういう存在なんだと思う。
一人では、他の誰かとでは決して行けない領域へ行ける相手。
心身が安らぐからこそ、インスピレーションもアイディアも泉のように涌き出る。
お互いの思考や環境を最適化しあえるバックグラウンドを持ち合わせている。
時間を経て共にいることが習慣や日常に埋没するものではなく、よい陶器などのように使い込まれてより馴染んだものになっていく。
美しく年を取っていける間柄であるということ。
それは男と女であるということでもあるのかもしれない。
誰かといるということが自分という個人を際立たせ、更なる能力を引き出し、自分一人の時間を一層プレシャスにし、一人の時間に得た気付きをまた共有したいと思える相手。
そういう人といるということが孤独を超えて、誰かといるということなのではないかと思う。
自分と対峙し続け、孤独と語り尽くした者のみが得られる、パートナーシップ。