カミサマノイウトオリに、よい入れ物になりたい、と何度もここでも書いているし、思っている。
何でもそう思っていたら、回るんだと知っているのに思い通りにならないことにものすごくイヤな気分になる。
その理由はいくらでも付けられるのだけれど、そんなことをしても気も晴れなければ思い通りに物事が動く訳でもない。
いつもいつも、物事が進まなくなるたびにそんなモヤモヤを心の中に持っては一週間ぐらいは何のやる気も起きないまま、小さく消えそうになった希望という種火にふーふーと息を吹きかけて、またその火を大きくしてきた。
ある事柄をカミサマから託されたと思っているとして、その事柄が自分の存在意義、自分がこの世に活かされている理由だ、誰かのために何かができる、と思っていると。
それが遅延したり、最悪ポシャってしまったら、自分の存在意義もこの世に活かされている理由もなくなるのだろうかということ。
今まではもれなく「存在意義なんてないでしょう、もはや」と即答していたし、それを心のどこかでずっと心配していた。
今日の気付きは、存在意義や価値があるのかどうかも「カミサマノイウトオリ」というジャッジに任せるのが本筋じゃないか、ということ。
自分が今この世に生きていることも、誰かに愛されていることも、いつかは死に行く瞬間へ向かう過程で、そこがもう「カミサマノイウトオリ」なのだ。本当の意味でお任せできなければ、よい入れ物とは言えないんだということ。
日々、周りで起こるミラクルには「カミサマノイウトオリ」を適応しているのに、どうしても「自分」かわいさでの不安がカミサマのジャッジを妨げる。
「捨身」ができていない、と言われたことがあったのを思い出した。
まだまだだなぁ、と一人つぶやく夕方でした。