私のこの国でのニックネームは「ねこ」という意味なんだけれど、そうなったのはずいぶん昔に私より一回りぐらい若い男の子と知り合った時のこと。年若い彼が知り合ったばかりの新しい友人でかつ年長の私にいろいろ気を使って「あぁしようか、こうしてあげようか」ってひっきりなしに連絡してくるのが面倒くさく、「嫌だ」「嫌だ」と自由奔放にいっていたことから、それがまるでねこの鳴き声のような音のつながりの言葉なので「ねこちゃん」と呼ばれるようになったのがきっかけである。
猫っていうのは犬よりもだいたいにしてのびのびしている。自分基準で、自分の快適さを追求しているように思う。犬みたいに飼い主にぺったりと愛想を振りまくこともあまりない。
「名は体を表す」というけれど、それは本当なのかもしれないなぁと思ったのは、私を「ねこちゃん」と呼ぶ人に対しては普段の私よりもずいぶんはっきり物を言うし、嫌なことは「イヤ!!」と言う。こういうことは日本語の名前で呼ばれる環境よりもかなりあからさまにその傾向があるような気がする。
語感がたまたまイヌじゃなくてネコだったから隠されていた性質が発露したのだったら、まさに無意識の中に猫っぽい自由さが刷り込まれた?なんて不思議な状況なのだけれど。
「ねこちゃん」というあだ名の話は刷り込み的なお話だとしても、実際、思い込みから解き放たれてからはすこしづつ、自分らしくのびのびしてきたなぁと思う。
いろんな方法で頭や精神を解きほぐそうとして、瞑想やいろんなことをやってみたけれど、魂がぎゅっと固まっていたなら本質までは届かない、「何か違う」と思っていることをみすみす見逃してしまうようなことがずいぶんあったと思う。そのころの私は自分らしく、ということが全く何のことか理解できていなかったんだろうとも思う。自分らしくいるよりは、なりたい自分やありうべき姿ばかりを追いかけて、自分が何を求めているのかに注意を払おうと全くしなかった。
その結果、いろいろな教えだとかで塗り固められた表面によってうちなる声が響かないようになっていたんだろうと思う、ずいぶん長い間。
小さい頃、自分が化け物のように感じていた。自分という化け物をギュウギュウと自分の奥底にしまい込んでおきたかったんだろうなぁとおもいだす。
のびのびしている、って言うのは自分の思いのままということで、押し込められる先であった「ありうべき姿」や「理解すべきコンテクスト」がないのだから。
そうやってのびのびして望む世界は、以前よりも明るくて、ナチュラル。
もう化け物はいなくて、ちっちゃい何もない私がいるだけ。
生まれ出た気分で、何だってできそうな気がする。