品格っていうのは自分に合う香水みたいなもの。

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数年前に「女性の品格」という書籍がずいぶん話題になっていた気がする。確か著者は元官僚の女子大学の総長だったと記憶している。

書籍自体に目を通していないので、何ともいえないけれどわりとアンチな意見が多かったような印象がある。「旧態然としている」とか「見下している」と言ったような「何を今更」というような意見が目立った気がする。

今の日本政府は女性をもっと働かせようっていう政策なので、NHKなんかでもふありとそういうのを感じさせる「職業女性」な連続テレビドラマをやっているのだろうなぁと思う。「女性がお家で家事だけをしている」ということが当たり前な社会において、現状に合わせるという意味も含めて、ドラスティックに社会の前提を変えようとしている意図もないとはいえない。

女性が社会に進出するということは、今私がいる国のように、工事や建設現場でも女性が働くという意味ではないように思う。同時に日本よりもずっと多くの女性のマネージングクラスも女性の官僚もいる。そういうことと「品格」っていうのは全く別次元の問題なんだよねって思う。

もちろんこれは女性に限ったことではなく、男性にもいえることで。
私も何人かの人と一緒にお仕事をしてきた経験はあるが男女の違いよりも「経緯と結果」でいつも判断する。
いろいろ話したあとはずっとみている。相手が何かを報告や相談してくるまで黙っている。
社会的な能力というのは性差よりも経験値や個人差や周りの環境で変わるものだからこそ、本人のやる気が見える「行動と結果」を見守るのが一番最善なのだろうと思っている。(まぁ、こういって手の内を相手に明かしても人間ってだらけるんですよ。面白いほどにね)

「品格」ってなんだろうかと思ったときに、言葉の意味から考えると「物である品」を格付けすることによって生まれた地位ということになる。

人間に当てはめると、人間を格付けするものこそが品格なのである。
こういう話をするとたいていは貧富や出自がその話題の骨格となるし、そういう意味での品格という「家柄」みたいな連綿と続く中で培われて行く英才教育的「エリート」の持つ「品格」とどうしても混同してしまうのだろうと思う。

私みたいな出自のある部分があやふやな人間はそういう話になると語るべきものがなくなってしまうけれども、あらゆることが「品なく」あってもそれはそれとして許される社会にいて自分が保つべきこととして守っていることはいくつかある気がする。

言葉を教えることが日常だったとき、「この本にはこう書いてある、友人には丁寧すぎると笑われた」とクレームを受けることがあった。

私は自分が母国語ではない言葉を学ぶときに、そのニュアンスや距離感がわからなくて、通訳業務などに自信をもてない時期があった。
それから「誰と話しても恥ずかしくない言葉遣い」を教えることに注力するようになったのは自然な流れなのかもしれない。言葉というのはその人の人格を表すものだから。

「ネイティブ並みにはなせるようになってから、彼らが話すようなこなれた言い回しは覚えてくださいな」と生徒さんには言ったものである。自分が大変な思いをしたことをせめて自分の生徒さんには体験してほしくないという思いからであるけれど、私のように王室関係から農家のおじさん達まで話すような人はあまりいないだろうから、それが正しかったのかどうかわからない。だけれど、日本人として恥ずかしくない言葉遣いと振る舞いをしてほしい、そういう思いはいまでもある。

品格っていうのは自分が恥ずかしくない言動、動作、立ち振る舞い、相手への思いやりのことを言うんだろうと思う。客観的にその自分をみたときに「何かこの人痛いよね・・・」って思わない自分。そう思うだけで、言葉遣いだけではなく座り方だとか、すごく些細なことまで整ってくるのだと思う。

それは家の外だけではなく、お家で一人くつろいでいる時だって同じだと思う。食べっぱなしのお皿が流しにおきっぱなしだったり、脱いだものが散らかっていたり。疲れて戻ってその時は許すとしてもちゃんとあとでリカバーする自分がいることが品格っていうか、自分の美しさを形成するんじゃないかなって思う。

散らかした部屋の中で暮らす私と、ある程度整った部屋で暮らす私。自分が主人公のドラマをみているつもりでいればいいのだと思う。(現に私はついつい、ドラマで女性出演者のお洋服の着こなし、話し方や歩き方に指使い、無意識にチェックしているみたいです)

品格という言葉が格付けを表すというのは基準があるということに他ならない。
それ以上でもそれ以下でもないのかもしれない。もしかすると。

自分が自分を「これでよし」としている格付けが他人にとって結果その相手の格付けでどのくらいに位置しているのかってことなのだと思う。

着物を着こなし、所作が美しくても話す言葉の内容が下品きわまりない人だっているのだから、そういう人は私にとっては「品がある」人だとは残念ながらいうことができない。そういうことなんだろうと思う。シンプルに。

いきなりそういうところに引っ張りだされたときに、「品格」を急にあげようとしてもあげられないから、みんな「ソンナノイラナイ」っていっちゃうのだと思う。すべては日常の積み重ねなのだから。日々心がけるからこそ、美しく、醸して行くのだ。さりげなくその人に一番似合う香水のように。

美しくあるってそういうことなんだろうと思う。

ただ、これだけでは十分ではなくて半分ぐらいのことだと思う。それ以上に訓練とか想像力がいるのが「相手への思いやり」っていうことで、それが実は品格っていわれるものの根幹をしめているのだと思う。いろいろなお作法だってそこが原点。相手を不快にさせない、快適に、さりげなく、感謝の気持ちを持ってっていうこと。

これが本当に深いよねって思う。
こんな暑い国でそんなこといくら話しても理解してもらえないでしょうけれど。
私の思う、相手に対する思いやりを軸にした品格についてはまたの機会に。

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