うちなる怒りがある時は怪我をしやすかったり、大きな仕事の前に「絶対上手く行かない」と思いこむのは、胃が痛くて吐きそうになっている自分がプレッシャーに押しつぶされているからだ。そのレベルで「自分の直感の根拠」を探すのであれば実は誰でも日常的に体験している。
これは何もマイナスのベクトルの時だけじゃない。定期的に読んでいるブログで先日紹介されていたのは、ソウルメイトにであったとたんに病気とか身体の不具合がなおった話がいくつか紹介されていた。まさか人の出会いで病気なおらないでしょう?って思うかもしれないけれど、あながち全く眉唾な話だとも思えない。
ここ数ヶ月、「根拠」の所在を探し続けている。
星の動きや手のしわやカードに依らない知りたいことに与えられた「答え」の根拠はどこにあるんだろうと。
「根拠」の所在がわかると「答え」が正しいかどうか、何が足りないのか、何が過剰なのかも探れるという思いからである。
いろいろなことに「こじつけ」は可能だし、「エクスキューズ」も可能だけれど、そんなまやかしは飲み込もうとしている自分自身が一番よく知っているのだから。
その革新的な答えがみつかった訳ではないけれど、自分の感覚に正直かどうかということが一つあげられるのかもしれないと思っている。それを素直に聞き入れる心の状態であるかどうかも含めて。
何がどう知らされるかなんて、自分を含めて誰にもわからない。
けれど、何かを感じ取ろうといればいるほど「メッセージ」は届けられるはずであって。
自分の身体や感覚以外の何にも頼らないでいることの方が実は難しい中で「根拠」ですら自身の中に見いだせたら、もうなんにも惑うことはないのではないかと思う。
「過去の経験値」を昔はよく(今も時折)根拠にしていた。
でもそれはルーティーンな人生・生活では有効かもしれないけれど、未踏の世界に足を踏み入れるとき、障害にはなっても「根拠」となって自らを安心させ、助けるものでは全くない。
それすら自分から手放して、自分がつながっている大きな存在から「確信」という「根拠」を見いだせたとき、何か新しい所にいけるんじゃないかと思う。
もちろん、その道を共に歩める人がいればもっと心強い。
だけれど、それであっても「確信」は自分の中から見いださないと今までと同じことになってしまう。
それぞれが自分で見いだした「根拠」を照らし合わせてみて「確信」しあえる相手がいたらそれは何より幸せなこと。
そのためには常に心身を清浄に保っていることが何より肝要。