役割の終わりという関係の終焉

2014-08-05 13.52.15

人生、出会うべき人には必ず出会う。しかも、一瞬遅からず、早からず。しかし、内に求める心なくば、眼前にその人ありといえども縁は生じず。(森信三)

という言葉は、若い人にも人生に少し疲れた世代にも等しく、人生の出会いの意味を感じさせてくれるものとして魅力的に響くもの。

だけれど同時に、人生にそうやって出会う人すべてを入れておけない。

だから、終焉がある。
役割が終わったとしても、つながっていく関係性はその形をまた変えていく。
親子の関わりなんかはそれにあたるだろうと思う。

縁あって結婚したけれど私のように離婚したあとの方がお互いに理解を示したりすることもある。その関係も役割を終える時期がもう近づいている。

関係というのは相手と自分というに点がないとつながらないからこそ、双方の同意がなく、片方だけでも終わったり始まったりする。

双方の意図が関係ありそうで実はもっとも影響が及ばないからこそ、当たり前に思ったり、大事にできなかったりするのかもしれない。

すぐにこの縁は深くなる、と直観することもあれば、結果そう言うつながりになることもある。

縁(えにし)というものの奥に秘められた役割、いわば業(ごう)についてはもっと思考を深めていくべきことが多いと思う。

土地との縁、人との縁。
切りたいけれど切れない縁、
切りたくないのに切れる縁。

縁あって、前世の業やつながりで今誰かとつながっているのであれば(それがいい関係であれそうでないものであれ)、きちんと全うしたいという思いが日々強くなってきた。

先ほどの森信三の言葉から考えると、自分に与えられていることをきちんと全うすれば、その縁でもたらされた役割も、きちんと全うするだけの時間とうまくやり抜く人間性をその瞬間に備わるようになっていくということなのだろう。

正しいも間違っているもない。
ただその目の前にある縁での役割を全うする。
それが一生のものなのか、ほんのひとときなのか。

誠意を持って人の道に外れないでいけば、その役割の終わりも何もかもちゃんと自然とわかるのではないかなと思う。

年を経ればより賢くなりたいし、軽薄な言葉を聞かされたりしたくない。
自分より年齢も経験も多い人間が軽薄な言葉をいい、不誠実な対応をして表面だけを繕う姿を見ると、よい反面教師としてのお手本を頂戴したことにありがとうございますと礼を言いたくなる。
あなた様のような年よりにはなりたくない、と。

人間としての成長を続ける限り、求めるのは与えられた役割をきちんとこなせる自分。
あらゆることを乗り越えられる自分。
どうしても引けない一点は守れる自分。

えんま様にも神様にも恥ずかしいことはしなかったと報告できる自分。

それは逃げないということだし、肚を決めるということだし、引き受けるということなんだろうと思う。
その縁続くまで。丁寧に。

縁が続くという望外の喜びにいつも寄り添える自分でいたいと思うのだ。
人間は一人生まれて一人死んでいく存在なのだから。

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