私にとって、自分を責めないでいることほど難しいことはない。
人に対する怒りなどより何倍も強い怒りがまっすぐに自分に向くのだから、「自分に腹が立つ」ということを日常的にやっている人ですら、この理解しがたいやり方に理解を示せるかどうかどうかわからない。
私が自分を責めている時は、愚鈍な牛や豚のような家畜をむち打つように、容赦がない。
弱いところを知っているのだから、そこを責め続ける。
えんま様の最後の審判だって、全部見られているその経過含めて問われると言うから、それに近いのかもしれない。
ある時はその決断を、ある時はその愚鈍さを、ある時はその浅はかさを本当に徹底的に責める。
感情や思考を通して自分が自分を責めているにも関わらず、その矛先というか、痛みは身体にでる。
反論すら許されない身体がうめき声を上げる代わりに痛みを感じさせる。
ショックなことがあると胃潰瘍になったりするというのはあながち嘘ではない、私は自分を痛めつけて長くそうやって来た結果の身体の不調にずいぶん悩まされてきたし、前回自分を派手に痛めつけたときにはやはり急な腹痛のあとに出血をしていた。
責めて賢くなるのなら、いくらでも責めればいい。
それが他人であろうと人であろうと。
でも、責めたってその状況が思い通りに変化する訳でも、愚かな自分が急に明晰になる訳ではないのだ。
そうだとしたら自分の心身を痛めつける意味は一体どこにあるのだろうとふと思う。
キリスト教では罪を許してもらうために自らをむち打つという行為をしていたようだけれど。
自分で自分を責めても許しを与えるものと同じ存在が許しを請うべく痛みを負うているなんていうのは、同じような行為だと考えるのであれば欺瞞ではないか、と思ってしまう。
そのような意図すらもたずにただ愚鈍だから、浅はかだからと痛めつけてるという行為には終わりもなければ、達するべきものもない。自らを罰しても痛みだけがあるのでストレス解消にすらならない。
ただただ、魂と身体を滅ぼすだけの行為なのだな、と気付く。
いつだって、魂と思考や感情が同じレベルにないことがこうやって自分を痛めつける原因であることもよくわかってきたけれど、そこでこの歩みをやめてしまえば望むべきところにあがっていけない。
魂と身体を痛めつけることなく、すべてを同じレベルに高めていけるスムーズな過程などないのかもしれない。
とても個人的な作業だからこそ、一人でのたうち回りながら、床を這いずるように自分のエゴや醜い部分と対峙するのだから。
自分を大切にすることと甘やかすことは違う。
どうするのが最善なのかまだ見えないけれど、心身を痛めつけないで済む方法を模索してもいいのかもしれない。
もういい年齢なのだから。笑
周りは自分にそんなに期待していないんだから、という励ましの言葉をもらったことがある。
そのとおり。だからこそ、自分は自分を叱咤激励して期待してやらねば、誰が期待するというのだ。
「お前ならできる」と言ってやり、倒れているところをけり飛ばして立ち上がらせることができるのは自分だから。
何より、そうなりたいのは自分自身でしょう、と肩を抱いて諭してやれる自分でなければ。