選択肢と想像力の関係

日本のシングルマザーの多くが貧困層だ、みたいな記事がFacebookのタイムラインに流れてきていた。
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私はここで社会が悪いとか、その女性たちの人生にとやかく言いたくてこの話を冒頭にもってきた訳ではない。一つのスパイラルを如実に表していると直感的に思う。
真偽すら確かでないのではとか、積極的選択かもしれないよねと言うシニカルな一言も封印して何がいいたいのか、というと。

慎ましくと思うとさらに貧するのだろうということ。現実はいかに厳しいものであれ、思考や想像力をそのレベルに限定してしまったら、そこから抜け出すことも、別の世界に行くことも難しい。

自分が想像可能であることの100%全部を使い切ることは難しいのだから、自然とその能力の8割9割ぐらいのイメージしかできないとなれば、現実はもっともっと困窮し、厳しさを増す。私はシングルマザーではないけれど、同じような辛さを経験したことはある。先あるイメージを封印することがどれだけ人間を絶望の縁に追いやるのかは体験済だ。

現実よりも大きなイメージをできなければ、その現実とイメージの間にある、あがることが可能な領域にあがるための階段すらないのである。

自分の今ある状況をフィックスされた、固定化されたものとして考える。雇われている人、人の給料で生活する、何だっていい。そこからしか見えない世界がすべてではないと言うことなのだ。

そこで「よい雇われ人」や「人の給料で生活する自分」となっても、「世界中を飛び回る世界企業の社長」の思考にも「長く続いた貴族に嫁いだセレブ」の振る舞いはわからない。

以前異業種からの転職者ですごくいい地位にいらした方が「そんなことをしたことがないからわかりません」とさらり平然とおっしゃったのに目を丸くしたことがあった。
わからないなら想像しないといけないし、知らないなら勉強しなくてはいけない。

今いる世界から抜け出すのにはそれ相当の準備と努力と心づもり、決心が必要なのだ。

一夜にして大富豪やセレブになるのではない。

プリティーウーマンと言う映画があったけれど、あの彼女なんかまさにそうだと思う。

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エレガンスを兼ね備えた、上質が似合う女性にどんどんと変化するためにはそこへイメージをし続けていかなくてはならない。
彼女はリチャード=ギアのおかげであっという間にリアルな現実が一瞬手に入る。だけれど普通は入らない。でもそれを信じて選択していくって言うことなんだと思う。

そうすると段階的に自分がふさわしい人間になっていくのだ。
自分が先、状況はついてくるのだ。

つましくいようと心がけることは、その精神自体は美しいけれど、幸せなのかどうかはわからない。

並んで同じように支給品を受け取るような暮らしはごめんだと思ったら、いろんなことを思うはずだと思うのだ。目の前にあるものだけをつかんでキュウキュウとするのではなく。

通帳に残高があったら、支給は止められるかもしれないけれどどれだけなりたい自分をイメージしたって支給を止められる訳ではない。

イメージと言うのはたがを外してそのつもりになると言うこれもある程度の継続的な努力をしなくては日々の生活、みているテレビ、話している友達との内容に毛の生えたものでしかない。

現実が厳しくて身体も疲れているから何もできないとエクスキューズするぐらいなら、脳みそぐらいは働かせてもいいんじゃないかと思う。

そんな努力ともいえない自分自身への働きが意外にも大きな選択肢を広げることになるかもしれないのだから。

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