先日、あるウェブニュースで「長生きの秘訣は、運動や食事より「生きる目的」」という記事を読んだ。
カナダのカールトン大学で心理学を教えるパトリック・ヒル 准教授達の研究成果だそう。
〜引用ここから〜
研究チームによれば、(調査期間中に)亡くなった人々が報告した内容は、まだ生存中の人々に比べると、肯定的な人間関係が少なかったほか、人生の目標が低かったという。全体として、人生の目標が大きいほど死亡リスクが低いことが一貫して予測でき、若年、中年、老年の参加者すべてにおいて、同じ効果のあることが示された。そして、目的意識を見つける時期が早いほど、その効果は高いという。
「目的を持った方が長生きできるという予測が、若い人でも年配の人でも同じように成り立つことが証明されたのは非常に興味深い。これは、目標を持つということ自体に、長生きにつながる力があることを示すものだ」とヒル氏は説明する。
中略
2009年に行われたある研究では、人生の経験から意味を見出し、目的意識を持っている人は、「ほんとうの目標」がない人に比べて、その後の5年間で亡くなる確率が約半分だったという。
別の研究では、目的意識を持つことが、アルツハイマー型認知症のダメージから脳を守るのに役立つことが示唆されている。
〜引用ここまで〜
これを読んで、改めて人間がただの「動物」なのではなくて「魂」がその「身体」を支配していることを改めて認識した。このあたりの国の人たちが日本などに比べてあっという間に年を取り早死にしていく理由もここにあるのではないかとも思った。
本当の人生の目的ってなんなんだろう、と改めて思う。人に理解されない、一笑に付されるほどの壮大な目的を持っていてもその目的のためなら長生きできるのだろうか。その目的を達成したときに一緒に喜んでくれる人がいなくて長生きする意味があるのだろうか。
なんてことも考えてしまう。
人生の本当の目的とは人それぞれだろう。目的が本当かどうかということよりもそれを自分のコンテクストで理解をし、励まし、支えてくれる人がいなかったら目的なんて果たせるのだろうか、とも思う。深い理解をしてくれる人がいなかったら、その日常ほど孤独なものはない。
目的が壮大であればあるほど、毎日の暮らしからはかけ離れたものなのだから。
そうすると目的に日常が押しつぶされたり、目的が日常に押しつぶされるということだってあるのじゃないかとも思う。
どれだけ心を強くしていれば、壮大な目的を持ち続けて日常を過ごしていくことができるのだろう。
それでも長生きする意味がどこにあるのだろう。
でももしかするとそんな大層なことでもないのかもしれない。
美しい魂を持つ人はそんなこと一生懸命「意味付け」や「価値付け」しなくても軽々にやってしまって、にっこりしながらその生涯を終える、それぐらいのことなのかもしれない。
ほかの「動物」とは違い魂を持ち、大きな目的を果たそうと奮闘する人間が日常や孤独に押しつぶされないという保証はない。だけれど、それこそが「カミサマノイウトオリ」に示される道をただひたすらに一歩ずつ歩くことが結果「壮大な目的」を持ち続けたこととなるのであれば、そんなに悲壮なことでもないような気もする。
すべてを自分に帰結せず、存在するかどうかわからない何かに成り行きを任せるというのも「本当の目的と長生き」の関わりと同じように「遥かなるもの」に標準を置くことで長い道のりを歩くという意味では近しいのかもしれないと思うに至った。