2022年も立春と春分の日も無事に過ぎ、残すは来月の来月のソンクラーンでお正月シーズン?も終わりますね。
今年の太陽暦での年末は慌ただしくお掃除をしながら過ぎ去り、春分は久しぶりにがっちりと怪我をして、正直スッキリとは程遠い毎日を過ごしておりました。
通訳翻訳の仕事を経て、ようやく自分がやりたいとおもえる、社会にいただいたものをお返しできるような仕事を見つけてウキウキとしながら、まぁ相変わらずスムーズに一足飛びにそこに行けない自分を歯痒く思ったりもするわけです。
そんな中でその仕事を知るために定期的にお客さんになって、いろいろなことを学ぶのが今は目一杯なのですが、結局自己との対話をすることになっています。
というブログを書いていた通り、私の中で滅私・無私はとても大切だったのですが、いつも「ここが終点ではないだろう」という気がしていました。
これが50代に入っての最初の思索テーマだったように思います。私という字がついているかぎり、それは「私」という枠を超えないわけです。
何事も受け入れて、寄り添ってその流れに乗っていくことで神様の乗り物としてやっているつもりでしたが、それではまだ立ち止まっている状態なのではないかというサジェストをもらった時には正直衝撃でした。(まぁそういう衝撃がしょっちゅうくるんです)
それを意識の上に引っ張って持ってこられたことで、改めて自分のなすべきことをうーむと考えさせられることになりました。曰く、この辺りが自分の不調や不具合の根幹になっているというのですから、やはり早急に手を入れたくなるものです。
この新しい仕事で使うべき道具を使うことによって、「判然と」理解や気づきがあるとき脈略もなくもたらされることがあるのですが、今回も。
「滅私のその先を行け。」
なんて力強いながらも広大な荒野にぽつんと置かれたような気づき。
でもその先があるのであるならそれはなんだろう、その境地とはなんだろうと考えあぐねました。
それは何かわからない総体、宇宙とここでは呼びますが、宇宙との感覚の合一なのだろうと思います。その境地に常にあること、それが自分であるというなんともはや怪しい(笑)結論に至りました。
でも不思議なことに、それを認識することでなんだかとてもホッとしたと申しましょうか、安堵しました。
留学から戻ってきて、一人で修行を続けていたときに「悟り」と言われるような境地に辿り着き、「あぁ、こんな幸せな境地があるのか」と思う一方、「欲」なく生きることは社会においていかに難しいことかを知り、出家の道を選ぶ前に社会との接点として人の悩みや苦しみを理解するためにたくさんの経験を積まなくてはと思って出家の道を思いとどまったことを思い出します。
「出家」も「悟り」もある状況ですが、そのような状況を自らの性質の中に内包させてしまう。自らと一体化させてそのような人間として生きていけば良い、という境地になりました。18の頃には足りなかった人生経験も、今となれば十分過ぎるほどですから。
年を重ねるごとに自分が楽になっていくのを感じていますが、今回のこの気づきは10代から抱えていた、「いつかは出家」という何かを昇華させてくれるのかもしれません。この気づきのおかげで世界がより一層シンプルに感謝と愛に満ちていくのではないか、そういう感覚もあり、それが何よりもありがたいのです。
自分はそういう人間なのだ、と私自身が認めてやることで身軽になれる、風のようにふあふあと行けると感じています。
何にも巻き込まれない私。
一昔前の自分から考えると信じられないぐらいの境地に清々しさを感じています。