新しいしつらえ

しつらえ、という単語は漢字では設えと書きます。基本は動詞のしつらえる、という語ですね。こちらの意味はこんなふうに出ていました。

しつら・える〔しつらへる〕【設える】 の解説

[動ア下一][文]しつら・ふ[ハ下二]《「しつらう」(四段)の下一段化》

  1.  こしらえ設ける。備えつける。「庭に物置を―・える」「部屋に飾り棚を―・える」
  2.  部屋などを整え、飾りつける。「洋風に―・えた客間」

しつらえるという言葉はとても日本的で美しいなぁと思うのですが、いかがでしょう。

わたくしという存在には長く、彼の国のことやそれにまつわる言葉や文化ばかりをしつらえて、それが自分らしいと思い、それが自分の好みなのだと思っているきらいがありました。

でもそうではないのではないかしら、もっとわたくしの今の身丈にあったものと思い始めて数年、赴くままに学んでいたことや一人でコツコツと続けてきたことがございました。

学ぶということは、止むに止まれずやることで、それ自体を使ってお金を頂戴しようだとか、人を幸せにしようということはありません。ただただ、勉強をするということは社会の役に立っていない気がしていて、心苦しくて仕方ありません。大学生の時は、自分は研究という歯車の一つなのだという気概を持って、自分は長い研究の歴史の一端に入るような気持ちでいましたが、実学というのはわたくしにとってそういうふうに決して思えないものでした。

若い頃、司法試験を受けている準備中の友人が、試験勉強を「これは僕の仕事」と言っておりました。弁護士になったら仕事でも、受かるまでは仕事とはならないのでは? と、どうも納得できず胸に引っかかっていたのとも同じところから来るかもしれません。

仕事というのは(誰かに)仕える事、と書きます。人のためになるというのは一体どういうことなのか、誰かの役に立つということはなんなのだろうということを今ずっと考えています。それに金銭が絡むとことはより一層難しくなり、今のわたくしにとってはそばにいる最愛の人が快適に心地よく幸せで穏やかにいてもらえるよう最善を尽くすこと以外に、人のためになったり誰かの役に立つという言葉を実践したり理解したりすることができないでいます。

まぁ、これもまたわたくしの10年ほどのらりくらりと考え続けるテーマの一つになるのではないかしらとぼんやり思っておりますが、とにかく、エスニックテイストなしつらえの部屋から一歩出て、空っぽの何もない部屋にポツンと座ったのがもう何年前になるでしょうか。

どこに座って良いか、何をおいて良いかわからないほどの空間に、ぽつりといたわたくしですが、一人遊びも上手なのでわからないなりに機嫌良く穏やかにいたと思います。

これは好き、これは合う、これは大事。
そんなことを大切にしながら、あれこれとやってみました。とはいえ、丁寧に毎日を暮らすことが基本、食べることが基本。体が資本。それが万事ですのであゆみとしては決して早いものではなかったように思います。

何人かの先生に教えていただいたり、自分で学んだりしながら、ようやくこの先生はという方に巡り会えたのも、オンラインの授業のおかげかもしれません。自分もたくさんオンラインのクラスをしてきましたが、これぐらい需要があるようになるとまた見える世界やレベルも随分変わるのねということを体感しました。わたくしは何かと手を出すのが色々早いもので、世間でそれが流行り出す頃にはもうやめていることが多いのが残念です。今回は自分が習う側となることで世界が変わったことを感じられました。もちろん、玉石混交、石が多めなのは否めませんが。

今回の学びも実は、プロになるだとか仕事にしようという気は一切なく、この先生ならロジカルに教えてくださるだろうという目論見だけでした。このかたが本当に先生だなぁと思ったのは、要所要所で今のわたくしに必要なことをさらりお話しくださることでした。

あなたはこもっているような人じゃないから、どんな形でも人の役に立てるわよ。今学んでいることは人の背中を押して誰かの役に立つのよ。と何度も講義の中でお話ししていただかなければ、お勉強たのしいねぇという満足で終わっていたと思います。

正直今でもこの勉強をつづけて、それを通じてどなたかの役に立つのかどうかは分かりませんし、誰かの手助けになるかどうかは分かりませんが、わたくしの何もなかった空っぽの部屋にひとつ気に入りの良いしつらえが入った事は明らかです。

その道を少し歩いてみようかと思った途端、そばにあった(軽く勉強続けていたことが)小道具が、あれとこれを一緒に合わせるとそれは素敵な感じじゃありませんか、ということになり、そこから話がトントンと進みそうな感じです。

江戸時代、今私がやろうとしているお仕事は大工さんの日当分ぐらいで受けるお仕事だったとお伺いしました。わたくしの先生もそれをお師匠から踏襲されていて、お師匠が見ても、ひよっこのわたくしでも明朗会計、同じお値段というその辺りも真っ当でよくわかるなぁと思っています。

誰かのためにではなく、自分のためにを突き詰めていくというのは、破綻が少ないのです。それは、大河ドラマ「麒麟がくる」をご覧になっている方は足利義昭が僧侶から将軍になり、貧しい人を助けようと思ったところが思い通りにいかず、それを信長の脅威のせいだとして、進軍したりしてしまいますよね。大乗仏教的な「皆を救う」というのは結局自分の大義名分、目的と化してしまい、結局救いたいという行動や結果ががおざなりになってしまうのです。それは具体的な「誰か」が見えない為でもあると思います。

上座部仏教は、自らの行動を通してそれを社会や世界に波及させようとしますから、誰かを救うというのは結果論であり、自らが何をすべきかということをいつも問われるところが大きく違います。

わたくしは、自分の新たなしつらえを良いものにしていくことで結果的にまだ見ぬどなたかを幸せにしたり、役に立てるのかは分かりませんが、ただこの道を歩んでいけば、何かが見つかるかもしれない、そんな気でおります。

学びの素地とは常に居住まいを正し、神仏に祈り感謝し、言葉も体も美しく、穏やかに凛と中道の心を持って己と世間に相対し続けることでできていくはずです。

その上にすっくとたち、学びを自分のものとし、より快適なしつらえの空間に自分の身を置いてやろうと思います。

今年は年末らしからぬ日常を送っておりますが、大掃除だけはぼちぼちと。
皆様はいかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。どうか良い年末年始をお過ごしくださいませ。