お役目をいただきました

日々起こる出来事に、価値や意味をつけるのはその出来事を体感した人の役目だなぁと思うのです。

意味や価値は人をがんじがらめにすることも、強くすることもあります。
どういう風にその出来事を自分の中に落とし込むかは自分次第なのですが、その時の心身の状態だとか社会的な状況とかいろいろなことが加味されるものかなぁ、と思っています。だからその時の最善でつけるべき意味をつけていけばいいのかもしれません。

おみくじという対話

おみくじを引くのがすごく好きだった時期と嫌いな時期があって、今はここぞというときに質問をしながら引くことにしています。

実はこの数年間、私は浪人の様な気分でした。自分の行動を示してくれる主人がいない、自分のすべきことはこれでいいのだろうか、と思い続けてました。この方と思う主君を探してというと大袈裟なのですが、今までの仕事と距離を置きつつ、違う世界に行くにも、どの道を辿っていくのが正解なのか、どこへいくのが正しいのか。私は一体どこへ向かっているのか。
あの国としか関わってこなかったのですから本当に途方に暮れながら、そのお役目が何かを教えてくださいとお伺いする日々がずっと続いていました。

そういう観点で引く私のおみくじは、神様から「言葉」が降りてくる楽しい機会なので、引こうというときには何を言われるか、わくわくなわけです。
なので、吉であろうが凶であろうがあまり頓着なく、一番最初に書いてある歌やその解説をしみじみと読み込みます。

ここ数年のおみくじ

本当に笑っちゃうぐらい、どこの神社でひこうとも同じ内容なのです。
時が来るまで待っていなさい。頭を低く、焦らず常に謙虚に感謝していなさい。
その時々で多少の表現の違いはあれど、この様な大意が書かれています。こういったメッセージが神様から寄せられると、あぁ、多分この道で間違っていないということなのね、と少し安心して、また心身の居住まいを正す気持ち。変わりなく自分がそういられるようにと改めて気を引き締めていました。もちろん今でも。

それが今回は少し違いました。
お寺や神社によく行かれる方は、自分にとって縁の深い、相性の良い場所がいくつかおありだと思いますが、私にもいくつかありまして。
いつもその神社にお伺いすると晴れやかな空で、三姉妹が大歓迎して迎えてくださる大好きな神社がありまして。その日もいつものように心地よくご挨拶に向かって、一番自分とご縁の深いお社の前でおみくじを引いて神様のお声を聞きました。

最初のメッセージにまずグッときました。本当に誰にも話さないでいたことを言い当てられました。今回は違う。
そして、なかを開くとこのようなメッセージがありました。

人々に精神的援助を与える人こそ、人類の最大の恩人である。

精神的援助、端的に言うと心を支えるとまずは理解しました。
私が彼の国の言葉をたくさん学んだことを通じて、その言葉で取り調べの通訳などしたことも、もちろん仕事でしたが、精神的に楽になって欲しいといつも思いながらやっていました。

仕事としては、調べる側の人間として接していましたが、調べられている人から、「あなたに通訳してもらってよかった、また会いたい」と言ってもらえることが多かったのは、不思議でした。
もしかするとそれは、できるだけニュートラルに接することを心がけていたこと、犯罪者と思って接していなかったこと、国益と彼らの人生を想って日本人の私がすべきことをするというスタンスが彼女たちの心を開いていたのかもしれません。

つらい、行きたくない、もう嫌だと言いながら警察や検察、裁判所に向かう精神的に苦しい仕事ではありましたが、自然に分け隔てなく振る舞える自分には向いていたのでしょう。取り調べが終わると、ひとりの人生を背負い込んだ気持ちになりましたが、それを丁寧に心の奥に片付けると、達成感と清々しい気持ちになったものです。

そんな仕事をなぜ辞めたのか。理由はいくつもありますが、ひとつは「会いたいと思った時に会えない人と接する」ということに限界を感じたことにありました。基本的にもう二度とお目にかからない人とばかり、緊張状態で出会ってもできることは限られていたからです。

なんだか、急に昔話がはじまってしまいましたね。元に戻りましょう。

とにかく、晴天の爽やかな初夏の青空の下、私の大好きなお社にいる神様から、
人の心に寄り添うようなことをして行きなさい、と言われているような気がしました。

もう何年も同じメッセージばかりもらっていたのに、とうとう新しいメッセージを頂戴して、浮き足立っている様な、何を始めたら良いのだろうかという気分でいます。

人の心のサポートをするというのは、私が十代で仏道を志した時、その道を諦めた理由でもあります。経験値が足りなくて、私には人の心を理解するには限りがあるだろうと。仏様や神様とのやりとりは一対一なので、マンツーマンでわかるまで何度でも、何年も対峙させてもらえます。

しかし、人間世界はそうは行きません。想像には限界があり、自分の経験の翼を伸ばした先から想像力を働かせてその人の思いを聞くことが今でも大切だと思っています。

いくら腑に落ちるお達しを頂戴したからといって、すぐにそれが何をどうすべきかにはつながらないのがなんとも面映い。誰かの話を聞いてあげることが良いのか、何が良いのかは正直まだわかりません。

若い頃は、恋愛大明神という渾名があって、笑(女子高生っぽいでしょう)私に悩み事をつらつらと話していると、いつの間にか自分がどうしたいのかがわかってしまうと言われていました。

そんな無邪気な思い出も後押ししてくれて、今までになく何かが変わる様な予感に満ちています。具体的な方策も、全て「神様の言うとおり」こうなさいと言うのが落ちてくるのを姿勢を正し、居住まいを整えていつもと変わりなく丁寧に感謝に満ちた暮らしをすることで待っていれば良いのかしらと思っています。

神様に預けることでよくわかったことは、無理は続かない、と言うことです。この場合の無理とは、自分の心や生活などの流れに逆らっていたりすると何かしらの軋轢がくるものです。それでもえいやと乗り越えていくのが良いのか、できる限り神様のフローに乗っていこうと思うかはその人の人生のあり様なのかしらと思います。

そう言うことで嬉しくて仕方がなく、ほぼ一年ぶりにブログがようやくアップできるまで書き上げられた(下書きはたくさん残っておりますの)こともありがたいことなのですが、おみくじを頂戴してから、書いてみようと言う気持ちがキーボードにまで届く様になり始めています。

長い間、ツイッターでのリハビリをしていましたが、noteでもひっそりともう少し軽く書いています。まだまだ十分に手を入れているとは言い難い状態ですが、さらりと日々の徒然を書いております。ご訪問いただけますと、大変嬉しいです。Meawのnote

鉄扇はクレマチス、とも言いますが、浴衣の柄などにも使われて、とてもエレガントな大好きなお花の一つです。
花言葉は『甘い束縛』『縛りつける』『高潔』とあるそうですが、前の二つはその蔓がしっかりしているところから、高潔という花言葉は花から得られる高貴な印象から来るのだろうと思います。

祈りや願いというのはいつだって、高潔であろうとするものなのだと思います。
それが欲に塗れたものであったとしても、自分の力ではない何かに預けることでそれが叶うことを望むという行為に自分の意図を超越した存在を意識している点が潔いのです。(もちろんそうではないうがった見方も可能ですが、今回は横に置いておいて)

心の平安というのは、その様な時に訪れるのではないかしら、と最近改めて思います。
このブログを訪れて目に触れる方やその周りの方々、世界中、宇宙が全て平和で調和に満ちて穏やかだったら良いのにと思います。心安らかに毎日を過ごせることで得られる想像力や活力を自分の人生に活かせたらどんなに楽しく幸せだろうと。

その一助となるために自分の力を使っていただけるのであればこんなに嬉しいことはないと思っています。そのために何をするべきなのか、目を見開いて耳をそば立てて、体を鍛えながら、学び続け、備えていこうと思います。

どうぞ不安なく穏やかに健やかにお過ごしでいらっしゃいます様に。
お護りとお祈りが届きますように。

織姫彦星たちの逢引よりも早くお目にかかれると良いなと思います。