紫陽花の季節になると、学生時代の園芸の時間に紫陽花の学名がお滝さんという恋人の名前に由来することを四国の伸びやかな方言で話すゴロー先生の声と、美しく装丁された萩原朔太郎の「こころ」という歌を思い出す。
こころ
萩原朔太郎
こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。
こころはまた夕闇の園生(そのお)のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。
こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。
――『純情小曲集』より
高校生ぐらいの一時期、耽美的な文章が好きで、ふあふあと寂しいだとか切ないを弄んでいたのはまだ子供だったのだから、というエクスキューズが許されるのかどうか。
美しさもかけらもないように感じられる世知辛い現実を乗り越えるためには、自分の世界に浸ることもあの頃の私には必要だったのかもしれない。
対人恐怖症みたいな感じになってから、自分が世界や世の中の役に立てると全く感じられない日が続いていて。
誰かの役に立てる、と思うと本もかけるしブログでも色々言いたいことが湧き出てくるのだけれど、いかんせん、何も役に立たない、とおもうと発信の手は本当に止まってしまう。何度やり始めても止まる。
体を動かし、目の前で結果の出ることだけが実際として「自分が役に立てる」という事実であり手応えなので、そういうことは好きだし、一生懸命できる。のに、あの膨大なブログを書いたり、文章を書いていた頃がもう信じられないぐらい私は自分が役立たずということに溺れているような気がする。
家の掃除や整理整頓と思考の整理というのは似ていて、自分だけのためだと散らかり放題、適当なものを食べ、ダラリとしてしまう。
そういえば、自律神経をやられて、食事もほぼ喉を通らず全く誰とも会えないし話せない頃に意を決して始めたことは、「まず自分のために料理を作る」ということだった。
自分のために作る。自分のために食べる。
自分のために片付ける。
Twitter民やnote民の人には多分?知名度のある田中さんの本。
彼の本を読んで(まだ読了していないのだけれど)、あぁ、自分の思考や思いを丁寧に整頓してあげるだけでもいいのかもしれない、と少し感じている。
先生のブログがわからないと言われて随分表現に迷ったことも、何もかもまぁそれで良かったのかもしれない。あの頃の自分は確かに読みたいことを書き続け、いい意味で自分がいちばんの読者だったと思う。
それがどんどん書くのが苦しくなり、オンでもオフでもどんどん語らない人になっていって、それはすなわち考えないわけでもないので、どんどんとひたすらにゴミ屋敷のように思考の塊が精神の何処かや魂の端っこにこびりついて、感受性や興味関心や探究心を十分に動かすだけのスペースが無くなっていたのではないかしら、と思う。
出せないことで、入れる量が制限される。人間の体でも、脳みそでも、魂でも、文章でも同じことなんじゃないか、とも思いだした。
「昇華される」大切さは思考を重ねていると痛感する。
昇華されないから、堂々巡りに何年も考える。結論をもって次に行けない。それは考え抜いたものを一つのまとまりとして自分に提示できていないから。
私も自分が読みたいものを書いてあげよう。
きっちりと時間をとって、丁寧に自分の思考と向き合って、「昇華される」喜びを自分の中に取り戻してあげられたら、また何かが変わるのかもしれない。
梅雨の晴れ間のような気分で今この文章を書いているけれど、そのまま梅雨が明けた夏空のように自分に向かい合って今抱えている色々な考えにひとつづつラベリングをしたり、マイルストーンを作ってあげたりしてあげられたらいいなと思う。
田中さんの本の結論が全く違うものであったとしても、読書半ばでこういう風に思えたことがたまらなく清々しい。良いタイミングで良い本に出会えて素直に読めたことが良かった。いつもなら手に取らないんだろうけれど、このタイトルは「お前が読まなあかんやろー!」と見るたびに言われている気分だった。
そのタイミングでフリーライターの雨宮さんの記事もよむ。「だって、わたしは“できない子”だから」。異国の地で心が折れていた頃の私へ」 言葉の壁で萎縮するっていうのは私も経験あるので本当に胸にしみる。
必要以上に萎縮しないでいる、伸びやかにいるというのは安定した精神での真っ当な自己肯定によってなし得るのだなぁと思ったりする。そのためには社会参加も必要だし、親しい人との交流も必要。一人で考えぬくのだけれど、一人でいると到達しにくい境地でもある。
私は最終的に自分が言葉を紡ぐことすら自分から取り上げてしまったのだから、随分と深くやらかしてしまったんだなぁとおもう。
自分を取り巻く環境を客観的に眺めてみると、大変な割には頑張ったんじゃないの、と言ってあげたいところだけれど、結構追い詰めてたのかもしれないね。
だから、これからどうなるのだろう、ということをもう敢えて今回は書かないでもいいんじゃない、なんていう気持ちになっている。書いてもその通りになるかどうかすらわからないもの。
でも、明らかに違うことは「書きたい」という気持ちが先んじていることを感じている。これが何より違う。それをいつか自分が「読みたい」だろうと思って書いておこう。
耽美的に「書けない自分」を見つめていた自分はもう卒業となるのか。自分が一番楽しみだったりしている。
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