当たり前。

芍薬を買ってきて、最近の海外旅で唯一の戦利品?だったヨーグルトドリンクのボトルに入れたとたんに、ふわぁ、とため息が花から溢れてくるのが聞こえるほど一気に開き始めた。

いつも飲んでいるお水を入れているおかげなのか、海外で飲んだヨーグルトドリンクの空瓶のおかげなのか。今日もひと束買い求めて、どんどん開く姿をワクワクと見守っている。

「君といるようになって、花に目が向くようになったよ」と言われるのは嬉しいことで、自然の息吹を大事な人と呼吸しながら感じられるっていうのはなんて幸せなことだろうと感謝する。

みんなそれぞれ自分の「当たり前」を持っている。花に話しかける毎日が当たり前の私、咲いても枯れても関係ない毎日が当たり前の人もいる。

学生時代、東京で過ごし始めて間もないこの季節だったと思う。高校の同級生数人、私とW君やM君、他にも誰かいたっけな。ごめん。失念。故郷から離れている友達で集まったことがあった。標準語で話しはじめて、途中で大阪弁にいつの間にか切り替わった状態で話すわたしに「Miaの標準語はウルトラマンのカラータイマーと一緒やなぁ、3分ぐらいで大阪弁に戻る。」と笑っていたのを思い出す。不本意だったけれどその通り。今でも標準語をきちんと話せるには至っていない。

ということで、今では丁寧でエレガントなさらりとした大阪の言葉が私らしくていいんじゃないの、ということになっている。船場商人の娘なのだから、美しい大阪の言葉への愛着もある。ふんわりゆったりと大阪の言葉を話す。なんかええやん、ということ。

関西じゃないところで、そんな風に話していると「京都の方ですか?」と大体聞かれる。「大阪なんですよ」というと、こちらがびっくりするほど驚かれる。よく聞いてみると、「大阪の人が話しているイメージの言葉よりも品がよくゆったりと綺麗に聞こえる」のだそう。

端的にいうと、日本中にテレビを通じて大阪が下品の総本山と言わんばかりに喧伝し、それに大阪の人たちの多くが乗っかってしまった結果、大阪の言葉すなわち、テレビで聞くようなお下劣な言葉、となってしまったのでしょう。残念なこと、本当に。

かの国で暮らしていればいたで、「この国に住んでいるようには見えない」とか、かの国の田舎で暮らしが好きなんて想像できない。都会の涼しいところでスタイリッシュに暮らしているんだろうどうせ、とか言われてしまう。

かの国の言葉の講義をしているときは、生徒さんのかの国での趣味趣向と私のそれがあまりにもかけ離れていて、「先生の教えてくださることは高尚すぎて合わない」と生徒さんたちに口ぐちに言われた。それに深いショックを受けつつ、関心がないことを教えては申し訳ないと、全く聞いたことすらなかった演歌やポップスだの外国人なら楽しまずにはいられないナイトライフだのを一生懸命リサーチして取り入れたものだ。

人というのは皆それぞれの「当たり前」を持っていて、「こうであるのが多分自然なのだろう」ということがどれほど他人のそれと重なっているかどうかということは意外と無関心なのではないかと思う。おそらく、「みんなこうだろう」という想定に安心して毎日を過ごしている。だから、その想定自体が違っていると気がついて「はっ」とするのではないかと思う。

そういう「当たり前」が日々のご飯とつながっているときは私も自分にとっては決して「当たり前でない」ものを見聞きして、お金もずいぶんつぎ込んだけれど、何一つ身にならず、結局楽しいとも思えないままだった。

もちろん、楽しいことを発見することだってある。
全く知らないスポーツや業界は私にとっては好奇心の対象だからどんどんと調べて学ぶのが好きだから、そこからどんどんと自分の「当たり前」が覆されていくのもまたそれは楽しい経験である。そういう柔軟さはいつまでも持っていられたら良いなと思うこと。

写真はお借りしました。

結局、みんなが同じに見える世界でポツンと自分だけが違っているような感覚や認識を持った時に自分をどれだけ違うあり方の自分を「それでいいよね」と肯定してあげられるのは自分だけな気がするのです。
誰かがのぞいている窓と、自分が開いた扉が決して同じとは限らないのだから。

みんなが不幸で不満たらたらだからって、自分も一緒に不満たらたら、不幸せですって言わなくてもいいのですよ。周りはどうあれ、幸せでいいし、穏やかでいいし、感謝していられたらいいんです。それを周りに周知することも、強要することもいらない。ただ自分がそうあればいい。

私は私なりにかの国への思いを持っているし、古き良き大阪の文化やしきたりには深い愛着を覚えている。他人がどうであれ、それでいい。

誰かと「そうだね」と言い合える幸せは、実はあんまりいろいろなところに転がっていなくていいのではないかと思うのです。
「私はそうは思わない」とか「私はそれを好まない」に満ちている世界の中で、「そうだね」と言い合える感性と出会える時こそプレシャスな瞬間はないからです。そういう魂の喜びは、なにものにも代え難く、そう簡単に得難いものです。

たくさんのがっかりを重ね、ほんの小さな「そうだね」に幸せを見出しながら、いつか魂が響き合うような相手と「当たり前」な何かを共有できる日が来ることを選べるかどうか。

いくつかのことに「そうだね」と言い合える幸せな経験をさせてもらって、魂が充足する喜びを学んだ私ですが、残念ながらかの国に対する感性で「そうだね」と言い合える相手とは出会えていません。

それでも、自分のかの国に対する見方や思いは紆余曲折を経てもやはり本質は変わらないのです。それは自分の実体験と実感に基づいているからで、それがある限り、誰かと共有できる日が来なくても、私はかの国に対する自分らしい思い入れを失うことはないのかなと最近は思っています。

#そうだね #当たり前 #船場言葉