積極的受容


ジョバンニ・シュトラッツア のベールを被ったマリア。 カナダの聖ジョン・バプテイスト教会にあるそうです。いつか見に行きたいな。

気がついたらひと月半も書いてませんでした。

今までの私は、「これはあなたのもの」と言われても「あげる」と言われても、「いらない」と言うことが多い子でした。

小学生の時、誰かのお母さんだっけな、いつもみんなが買って食べているアイスクリームをいただいたんです。
すごく悪いことをした気分になって、もちろん多分家でお小言ももらって。

「もう、こんな胃がムカムカするような気持ちにはなりたくない」
と、幼心に強く思ったものです。

あげるのは得意、もらうのは苦手。
でもそういうのって大抵「おせっかい」と言われたり「重い」って言われることも多く・・・。笑

そういうことがずっと重なると、結局、「距離感上等」みたいな感じで。

「よらば切るぞ!」みたいになっちゃうんですよ。
猫がシャーって塀の上からしてるみたいな。

でも、結局バランスで。

惜しみなくを存分にしたい分だけさせてもらえるような環境が整い。
それを取り上げられる(自主的に出て行く)みたいな不安も随分と緩和されるとですね。

今までは、何かあげるーって持ってこられても、
「今仕事忙しいからそこ置いておいてください」みたいな、ぞんざいじゃないんだけれど、きちんと向き合えない感じ。

でも、なんだか片側が満たされることで、自分にももっと流れが欲しくなる。

流しそうめんじゃないけれど、水は流れていくから、ちゃんと麺も流してみたいな(ちょっと違う)。
自分が満たされてないと、惜しみなくってできない。

自分が干上がっていては惜しみなくなんてできないんだよね。

誰かに注いでパサパサな人は、また別のしっとりな人に惜しみになく注いでもらってっていう循環。

関西の人たちは、目上の人の介護を「順送り」と呼んでいたのが印象的でした。
そうやって社会のシステムが流れていくんだっていうことを病院で祖父母の介護しながらいつも耳にしていましたね。

今までは自分がパサパサにならない程度に受け取っていたけれど、これからはそうでなくてもいいのかもしれない。

自分がしっとりになればなるほど、他の人に注いであげられるし、きっと注げる場が出てくるんだねっていう気づきというかタイミング。

受け入れるのも注ぐのも、バルブいっぱい開けていい時期に来ている様子です。
全てに感謝と愛を今以上に込めながら動いて行けるタイミング。
私らしくて嬉しいね。