人間なんて欲望の固まりで、欲=欠けていると思うもの、足りないと感じているものをさらに補いたいという気持ちがあってこそ社会生活も日常生活も「より良いもの」として成長が期待される。
17歳で「欲」というものが自分を苦しめる、「自我」というものが衝突を生むのだから、限りなく小さくした方がいいと得心した私は、「ありうべき姿」を「無欲と無我」に無意識に求めていたのであろうと思う。
求めながら足が止まる。「欲」がないと何も進まないのだ。欲することからすべての行動が起因するのだから当然のこと。「無欲」では生きられないなら最小限度に自分の成長のためだけに欲をもとうと決めた。
いろんな不必要な「欲」だと自分が感じるものや魂が自由になるものを拒絶してきたのかもしれない。
それは結果的に若いときに広げるべき見聞だとか、同じ世代の友人たちのような経験を積むことからも自分を遠ざけていたかもしれない。
そう考えると、あの頃に自分が「宇宙人」とアルバイト先で呼ばれるほど周りとかけ離れていたことも今ならよくわかる。あの頃は全くわからなかったけれど。
「無欲と無我」を追求しながら社会生活を送るのは苦痛でしかない。と気がついたのは大学生活も後半に至った頃だったと思う。
それを手放す選択をしても、そうかんたんに長らくこびりついた「ありうべき姿」が簡単に姿を消すはずもなく、精神の求めるストイックさと自分の生き方にずいぶん長くそれからも葛藤をしていたなぁと思う。
それから何年もかけて、私は周りの人が楽しいと思うことや面白いと思うことに時間をかけて理解して馴染んだと思っていた。その中に自分の楽しさも面白さも見つけられたと思っていた。
だけれど、それは結果的に私に合うものではなかったのだろうと思う。自分がいかに生きるか、どうして孤独を感じるのか、愛とはなんなのか、人はなぜ争うのか、憎むのか、正しく生きるためにはどうしたらいいのか考え続けていた私の何かが悲鳴を上げたのだと思う。
そんな経緯を経て、今ここにいる私。(悲鳴を上げて何かが壊れてから今に至る話はまたの機会に)
願わくば、無欲の意味を取り違えて自分の可能性や見識をずいぶん狭めてしまったから、これからそれをどんどんと広げていけたらと思っている。何にもとらわれず、先入観も偏見もなく。
結局、私は自分がよい人間、神様の良い器になりたいだけなのだけれど。
無欲と無我は結局「カミサマノイウトオリ」ということでもあるのだから、巡り会った環境と関係に身を任せて尽くすこと。これに尽きる。
これが若い頃の私が求めたのとはまた違う「無欲と無我」の境地ではないかと思う。