哲学科研究室のゼミ室に差し込む夕日

2014-04-29 18.44.58

大学2年の終わりの頃だったろうか。

自分の興味関心に大学の授業があまりにもの足りないでいる私を危惧した指導教官が、「この人に会いにいってご覧」といって会わせてもらったのが、私の大学から山を二つ越えたところにある大きな総合大学の哲学科の博士課程の人だった。

緊張した面持ちで一回りも年上の高野山の研究をしている彼と面会をした。年よりもずっと若く見える彼は私の話をひとしきり聞いたあと、「じゃぁ、K先生の授業でてみたら、それがいいわぁ。私から先生にお願いして改めて連絡しますから」と彼の故郷の茨城弁なまりでいってくれた。

おそらく、外国の宗教ばかり勉強していた私に国内のこともやっておいた方がいいという指導教官の配慮で私はとある大学の大学院の哲学科のゼミに出席することになった。

K先生は当時は東京大学の教授でこの大学には非常勤で教えにきていらして、数年めだったように記憶している。最寄り駅からバスに揺られて、たくさんある学部ごとの建物にくらくらしながら文学部の哲学科にようやくたどり着いて。

6階か8階に学科の事務室みたいなところがあって、そこにおそるおそる入っていった。ほかの大学のましてや学部生だからいいのか?って気持ちで緊張しながらおずおずとその奥にあるゼミ室に入った。

そこはおそらく多くの人が「研究室」って言うと思い起こす、天井までいっぱいの古い本とその古い本が醸し出す埃っぽいかんじとと甘い匂い。積み上げられた本で薄暗い室内に小さめの窓。

K先生は笑顔でひとしきりの経緯は聞いたこと、私の自宅近くにある大学に数年勤めていたことなどを話した上で、快くゼミに参加させてくださった。

その当時、ゼミでは鎌倉仏教の思想を研究していて、叡尊というお坊さんの書いたものを読みながら当時の思想を調べて発表していた。もちろん「ごまめ」なのだけれど、学外でかつ門外漢の私にとっては刺激的な場所だった。「学問ってこういう風に生まれるんだ」みたいな雰囲気を先生とほかの院生の人の議論でずいぶん味わうことができた。

「ごまめ」なんだけれど、一年に一度ぐらいはK先生から「こんちゃん、たまには、やってみる?」と言われて発表する機会をもらったけれど、緊張しすぎて何をどう発表したかすら記憶にない。K先生は当時既に著名で素晴らしい業績もお持ちでしたが、それに加えて素晴らしいお人柄で、いつも明るく、いろんなことをすべてお見通し、という先生だったので私も3年間もこのゼミにお邪魔できたのだろうと思う。

学期末の懇親会は先生の発案で「ごまめ」の私がちょっと変わった海外のお料理を出すお店を探して幹事をするのがお決まりで。

自分の大学の同級生とよりは少し年齢が離れたお兄さんお姉さんであるこのゼミの先輩にも先生にも本当にかわいがってもらって、居心地のいい、学問って楽しいなぁと思えるのんびりした時間をいつもいただいていた。

夕方、夕日が小さな窓からさしてくるのをかんじながら、数百年前の人の思いを汲み取る時間。
それを古びた多くの本が見守っている。

本を多く読む人というのは、見てすぐわかる。姿勢やスタイルがもうそこにあるから。
集中して先生や先輩が本を読む姿が似合う空間。思索の引き出しを引き出せるような空気。そしてなによりも、静寂。

私の行った大学は新しくて、研究室も何もかも無機質だったから、この大きな歴史のある大学で知が重ねられていくのを感じられたことは何よりも幸せだったと思うし、そのあとの人生にもひとしきり影響を与えたのではないか、と思っている。

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