「バカの壁」で有名な養老孟司先生が、新刊「遺言」を出されたというプロモーションビデオを先生の飼い猫「まる」の可愛らしさにユーチュブで拝見していた。冒頭、養老先生が「意識」ということに皆あまり注意を払っていないのではないかということをお話ししていらした。
私にも思い当たる節がある。私はフェイスブックで幾つかのグループに入っているのだけれど、誰かが何かを買ったと言えば、そのグループの何十人もの人が「私も買っちゃいました」という書き込みをする。ある人が、何かを掲げて旅先から写真を撮れば「私もやってみたかったの」と真似する。写本や今日のひとことをアップするのがブームになったかと思いきや、次はその筆記具をテーマの小説というように。
タイムラインに流れてくるのをナナメ見しているだけで、十分に人間の意識や創造性について感じることがないわけではない。
「あの人が買ったから」「みんな持っているから」なんていうのは、小学生が欲しいおもちゃや女の子が欲しい洋服を欲しい時に使うセリフだと思っていたら、どうやらそうではないのだということを今更ながらに感じる。
まぁ、趣味のものに「必要」なんていう概念は当てはまらないので、「欲しいか欲しくないか」が購入や行動の基準に値する唯一のものなのだろうけれど、その基準こそは自分の矜持であり、自分を自分たらしめるものだろうと思っているから、その不思議な状況を動物園の檻の中なのか外なのか、全く別世界として眺めている。
よく会うお友達との会話やふと目や耳にしたものを真似してすることは別に今に始まった事ではないけれど、オンライン上で絶え間なく流れてくる情報も”内輪の流行”のようにやらないと仲間はずれ的な暗黙の強制による行動が集団心理のなすものなのか、それとも無意識なのかわからない。
真似してみるが高じて、「新しいものが欲しいのだけれど、何を買えばいいですか?」なんていう問いかけがたくさん溢れているのを見ると、私には「あえて考えないようにする」という作業の一環のようにすら映ってしまう。欲しいものを選ぶという一番楽しい行為ですら、他人に任せてしまうのだ。それならなぜ買うのだ?というツッコミなんて誰からも発せらることもなく、嬉々として「これがいいんじゃない?」「僕はあれを薦めますよ」なんていうのが延々と続く。
反対に、食べ物のグループなどはエキセントリックな人が多い。キーキーやる人がたくさんいるにもかかわらず、「こういうの買ったんだけれど大丈夫ですか?」というアップがくりかえされる。誰も「ググレカス」とか言わないで、大丈夫派とダメ派に分かれて口汚く罵り合うのはもうなんなんだろう。笑うしかない。自分が選択して食べたり食べなかったりすればいいのに、どうして人が食べる物の善し悪しをおかずにして喧嘩するんだろう。ダメって言われた食品はそのままゴミ箱に行くんだろうか。基準がわからなくて、他人が判断できないものを他人に判断を任せるという行動は何のためにされるのかという疑問はいつまでも解消されない。
誰もダメ出ししないジェントルなグループは平和で喧嘩がなくて居心地は良さ気なんだけれど、それが増長すると「買うということの自己正当化」とかグダグダにしか映らない関係性が残念すぎる。まぁ、それが社会だったり集団だったりするのかもしれない。それが好きな人たちが集まっているのだし、強制されているわけでもないのだから。その一点で彼らは「自由」なはずなのだ。
どちらの集団においても「考えない」ことが集団の存在意義なのかもしれない。「自意識」の欠如と言えるほど、集団で自己の意識を他に向け、無意識からの信号を無視するような。それはある意味「空」であり、宗教的な存在なのかもしれない。これは私が普段から実践している「滅私」とは全く違う。滅私は突き抜けるほどより集団的な宗教性からは乖離していく。滅私の方向性は宇宙との合一だから、あらゆる根拠や判断が特定のものに委ねられることはない。むしろ、意識的に宇宙から流れてくる無意識かの情報も含めて敏感に察知して、自らの下す決断に生かすことが私の考える滅私の大きな軸の一つである。
日本人が私は無宗教だと言いながら宗教的だと感じさせられるのはこういうところにあるのかもしれない、とふと気がついた。