持たないことと使うこと

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できるだけものを持たないという話を自分の中でまとめて間もないのに、毎年のようにまた変わりなく、スケジュール帳と日記帳を探す時期がやってきた。

偶然、買い求めに行ったら毎年使うものが揃っていなくてふと、考えた。
「そういえば毎年書いたものが束になっているよな」と。

小学4年生の時から日記と言えるかどうかわからないものを書き続けていて、もう数十年分は処分して、留学時代の数冊と近年のものだけ残していたのだけれど、留学時代のそれらは先日の終活で処分してしまった。

せっかく処分したのに、また私ってば捨てるべきものを作るのか。
という気持ちが頭をもたげる。

社会が一人一台コンピューターや、スマートフォンの時代の始まりの頃から「すべてをデータ化する」というミッションがIT業界の中に前提となっているのは誰もが意識してようともしていなくとも公然の事実なのだろうと思う。「テレビのチャンネルを変えて」「エアコンの温度下げて」みたいな今まではデータとしての価値すら見出せないような瑣末なことですら、GoogleのAIスピーカーのGoogle home などにかかってしまえば、結果的にビッグデータとなる未来が確実に我々の社会の一部になり始めている。

終活という視点から見ると、パソコンのハードディスクを粉々にしてもらえれば、自分の所有をしてもらっていたものが自分と一緒に消えてしまうのは処分してもらうことを考えると簡単だろうと思うし、私も多少は気が楽だ。

パソコンやスマートフォンの「記録」のためのアプリや製品は昔から随分注目して、実際自分でも使ったりしてきたけれど、最近は「記録」と「データ化」をつなぐアイテムも含めていろいろと出てきている。

ちょうどその時にたまたまKindleで提供してもらう無料の一冊で「日記の魔力」表 三郎 著を読んだところ、彼がデジタルな日記の利点を随分と力説されていて、なるほどと思うこともあったので、iPhoneで日記を書いてみることにした。

確かに、紙を持ち歩かなくていい、どこでも書ける、データの貼り付けも随分楽だから、悪くない。順調だなと感じられたのだけれど。

字が書きたくなって仕方がなくなったのだ。

日記や手帳を書くことで満たされていた書きたいという願望が切々と。

書くということの効用は明らかに打つということと違うのだと改めて実感する。

かの国の言葉の仕事をしていた時に、最初の本はお師匠との共著予定だった。彼は原稿は原稿用紙に書かないといけない、という主義だったのでワープロも当時はおぼつかず、自分で入力はしないと宣言していたので、彼の本はこれまたアナログの編集者がそれをぽつぽつと入力していたと聞いた。結果、彼の遅筆のおかげで?私の専門分野で最初の本を単著にできたのは、まさにたなからぼたもち、ありがたい幸運をいただいた。

人に見せる書きものと自分のための書き物は正確には少し違う。私も原稿はデータで入稿したけれど、その元になるもののほとんどは指を動かしながら脳を動かし、書いていた。人に見せるためのデータ化だったわけだ。

「書く」という作業には「打つ」のとはまた違う、思索の放出を促す何かがあるのだろうか。先ほどの表さんはその著書の中で、日記は直接入力していても、「読む」時には「紙」に打ち出して読む方が頭に入り、より精査できるということを述べている。それに、誤植が画面で確認しているよりも見つかる確率が上がるのも事実だ。

脳神経と末梢神経の関係は深く、指や手のひらへの刺激は脳を刺激することはよく知られているし、手仕事をする人たちの多くが若々しくいらっしゃるのも通じるところがあるのではないかしらと思う。

ということは、「書く」と「打つ」では脳からの出力に多少の違いがあるのかもしれないということを久しぶりに体感することになった。

書くための道具や書かれる紙にこだわるのも、もしかしたらその多少の刺激の差に自分のフィットする如何があるのではないかと考えると、最善の一本、状況に適した一本を探そうという試みもそれほど理解が苦しいものではなくなるから不思議だ。

で、私は結局どうするのだろう。

まだ結論を出すまでには至ってないけれど、せっかくの少ない楽しみを自分がいなくなった後のことにばかり注目して我慢するのもおかしいので、処分のタイミングだけうまく考えればいいのかな、他とのバランスをとりながら。