先週のことですが、また年齢を一つ重ねました。
毎年、反省をして抱負を書いていますが。
昔から実は誕生日があまり得意ではありません。そこに意味づけすることが当たり前な風潮に一生懸命乗っかっていた気がしますが、今年はそんな気遣いをすることもなく、あたふたと着物を着付けてお稽古前に天満宮にお参りをし、たっぷりと汗をかきながら踊った1日でした。
近頃、どうして人間はそんなに話すことがあるのだろうと思います。どうしてそんなに人に理解されようとしたり、言葉の羅列を延々と誰かを相手に続けているのだろうと不思議になります。
かの国にいた時、延々と電話で話し続ける彼らを見て「何をそんなにしゃべることがあるのだろう」と不思議に思っていましたが、実はこの国でも同じでした。
教えていても、文章を書いていても、通訳をしていても「どうして理解できないのだろう」と思うことがありました。それは自分の下手さが原因なんだと長く自分を責めながら、頑張ってきましたが、この数年そういうことをパタンとやめてしまいました。
理解できないという事実に理解して欲しいという感情は無力なのです。
翻訳にしても通訳にしても、文章の良し悪しを語る前に、「共通する認識の土台」の程度を測る必要をいつもかんじていました。
例えば、ある国が世界地図のどの辺りにあって、豊かなのか貧乏なのか、暑いのか寒いのかちょうどいい頃合いの気候なのかぐらい知らないと、その国の人に対する想像力なんて及びもつかないわけです。
余談ですが、声調言語の国で、知識階級の人には通じる自分の発音が、地元の農家や警察官には通じないということはよくあります。(除く外国人のお相手がプロフェッショナルな人)それは、知識階級の人たち、すなわち想像力や集約力が高い人たちのほうが、お粗末な外国人の発音や癖を文脈なども併せて類推して理解できる能力が高いということです。
どちらにしても、たくさんの情報を集約して無意識にでも分析し、「こういうことかもしれないね」と想像力を働かすことができるのは、ある程度の「土台」があってこそのことだと考えています。
大学時代、私が卒業するのと同時に、私のお師匠である指導教官がサバティカルをとって、外国に旅立ちました。それまで、本と格闘しながら、ひたすらに学問に打ち込んだ彼が旅立った理由を数年後、帰国した彼にたずねたことがありました。
大学生の私は自分の行き道がわからなくてあちこちに頭をぶつけた傷だらけの猫のようでした。誰とも共有するだけの土台がなく、学問の中にその答えを見つけるべく、ふらふらと歩きながらみーみーと鳴いていたような気がします。私の指導教官は、頭をぶつけすぎてアホになっていた私の前に餌を置いて、こちらを歩いてみたら、と印をつけてくれた人でした。
頭をぶつけなくなった私はパワフルにその道をグイグイ進みました。呆れるほどに。
昇華できていない経験の塊と格闘するその姿が彼には強烈だったようです。
経験だけによって得られるもの。
その凄さを実は君は僕に見せてたんだよ。と、お互いの顔なんて見ることもなく、グラスを傾けながらポツリと恥ずかしそうに言ったことを思い出します。
この数ヶ月、自分の中にあったエアポケットのような何にも侵されない圧倒的な静寂を持つ空間が大きくなって、心地よく静かな時を今まで以上に過ごせることが多くなりました。
いろいろな経験は人を雄弁にも寡黙にもします。
人に理解を求めるより、自分が何かを理解するために、淡々と経験を積み重ねてたいと思います。よりたくさんのことが理解し、想像できるような経験の土台を強くしていきたいです。
それが結果的に、世界や社会のためになるようなことであれば良いですし、まずは自分が美しくおだやかに存在し、身近な人を心より大切にして感謝して愛していければ、それが一番ありがたいことだと思っています。