次への準備

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ネットサーフィンでヌイさんという方のブログとか文章の書き方が目にとまって、これは書き慣れていない人にはいいなぁと思いながら読んでいて。当該のエントリーが見つからないので大雑把にブログは貼っておきます。ヌイの脳内

大学をお休みして、丁寧に考えたり文章にしているすがたは20代にするべきことをきちんとこなしていらっしゃるなぁと思いながら見ています。私も一生懸命考えて、物を書いて、やらないといけないって思うことに邁進していたなぁ。彼女はゆとり世代らしく、もう少しゆったりした感じなのが今時かな、とも思うんですが、ガツガツ必死じゃないのもいい。

大学という空間と時間の中で私が存分に味わったものをふと懐かしく思ったりするわけです。

その彼女が書いていた、文章の書き方の中に”その文章が届いて欲しい相手”ペルソナをできるだけ詳しく仮定すると文章が書きやすいし、伝わりやすいよという話があったのです。

むかし、ブログというものが日本の世の中に出てきた頃、私には書きたいことがたくさんあって、なんとなくそれに共感してくれる悩める女子たちが、ひっそりと私のエントリを読んでは”一人ではないのだ”と思ってくれていたのだと思う。仕事のブログを書いていた時は、かの国のことが知りたい人や言葉がうまくなりたい人が読んでくれていたし、私だってそういう人に届くようにあれこれと言葉を紡いでいた。

はたと私の今を考えた時に、伝えたい相手や結果的に伝わって欲しい相手というのが全くイメージとして湧いてこないから、私は何も書かないのではないかしらとそのエントリを読んでからひとしきり”私のブログにとってのペルソナ”を探していた時に気がついたこと。

丁寧に考えれば考えるほど、カードゲームをやっているように一枚一枚手持ちのカードが減っていき、最後の一枚をテーブルの上に投げ出して”全然いい手がこなかったよ”というような感じだ。

いや、カードゲームだと最後手元に残るカードが自分にとっての最後の一枚。その人たちに届くように書けばいい。もしかすると昔はそれが”わたし”だったのかもしれない。書くことで自分に語りかけ、そうだよね、そう感じてるんだよね、という作業をしていたのが結果的に、孤独女子の琴線に触れていたと言ったほうが正しい。

それができなくなったのは、もしかすると滅私ということを見つめ続けた結果というか、成果というか。”私であって私でない”状態では”私の感じたこと”にそう重きを置かないから、一生懸命書いて話してアウトプットしなくても、その意識は宇宙と一体化して、変幻自在な存在として浮遊しているから、必須だった作業が全くもって必要なくなったわけであり。

ということで、つらつらと考え続けていたことの理由が今頃になってようやく見えてきたので、それを残しておくべく、こうやってまた文章が書けているのは幸せだし、楽しいこと。改めて文章を書くという時間は私にとってプレシャスなのだなぁと思う。

自分を収めるために書く必要がなくなった私は、誰かというペルソナを見つけて書くことができるのだろうか、書きたいのだろうか。どうやってその対象を絞るのだろうか、とふんわりと考えている。

私は自分の独りよがりにも見える文体が好きだ。読解力のない人に”あなたのブログは何を書いているかわからない”と言われようとも、誰かに教えるような居丈高なのは好まない。ハナにつく文章が多い時代、私は今までもそういう文章が苦手だったし、美しいとは思えない。何より自分が誰かに諭すように書いて楽しいのかどうか。仕事のブログが義務みたいに面白みのない文章だったのも、自分が楽しんでいなかったからだと今はわかる。

特にこの数年、自分の中のもともと強くある内向的な私に随分と羽を伸ばさせて、”インディアン白人皆友達やね、あんたは”と母に言われたような社交的なわたしの存在とはあえて付き合おうとしなかった。ここまで羽を伸ばせたからこそ、ある意味自由になって解き放された気持ちすらしている。

新しい言葉を学び、新しい生活に順応していこうとしているこの時期に、積年の思索に何らかの出口が見えたことも何もかも、必然のタイミング。カミサマノイウトオリに感謝してただいまを見つめていればいいのだけれど、今までとは違う変化の萌芽を感じている。