心身の基礎体力

IMG_2535.jpg

美しい佇まいというのは実は自分の持てる元々の力がしっかりあることが大事なのでは、という最近の気づき。

美しくあるためにはある程度の力(パワー、経験)などがないとやはり美しくなりえない。自分で着物を着付けられるのと、美しく着付けられるのとは全く違う。着物を着つけるのは以外と力仕事で、帯をしっかり締めるにはテクニックも力もある程度必要。そのためには頻繁に着付けないとねっていう感じだと思う。

着物の世界は奥が深いから、それ以外にもたくさんの約束事や覚えておくこともあって、ただそれだけとは言えないとは思うけれど。

日常生活のふとした立ち振る舞いだってそういうことなのかもしれないと思う。
自分の手に余ることを人はたくさんしないといけない毎日では、どうしても自分の持てる力以上のことを無理やりやることの連続なのかもしれない。力があったとしても、疲れていて本調子ではなかったりする日もあるだろう。

家にあるものが溢れるのだって、散らかるのも、家の中に置き場のない、”オーバーキャパシティ”の状態だ。

私たちはそうやって精神的にも物質的にも”オーバーキャパシティ”な世界にいるのかもしれない。インターネットの中ですら、情報があふれてた世界。

”断捨離”という言葉がもてはやされて、皆がものを簡単に購入するのと同じように手放すことを促すようにはなった。
”瞑想”だって、オーバーキャパシティの自分の脳みそや心を少し休ませることだ。

それが日常になるということは、人間の体と同じで入ってきたものを規則正しく出しているだけだ、とも言える。

次の段階では、入ってくるものを減らしたり、より選ぶようになる。
快適な循環のためにはそれがスムースだから。

やらないとどんどん溜まっていく。
嫌になってそれを見てみないふりをしたりもするだろう。
でもそれはまた別の話。

そうやってルーティンとしての浄化、入ってくるものの精査をしたって、自分のキャパシティが大きくなるわけではない。
浄化と美しくある有り様はイコールではないのだ。

毎日同じことをしていても、年を重ねると若い時のように気も心も変化する。若い頃のように、気力が充実した頃のように、行かないこともいろいろとあるのかもしれない。そう感じることを少しでも遅くすることができるとするならば、それは自分の心身の体力作りを怠らないということなのだろうと思う。

例えば、無理やり持った重い荷物をたとえ持てたとしても、静かに置けるのかどうか、”あー重たいっ!”と放り投げないのには自分の体力が必須なのだ。それは最後まで丁寧にやり遂げることに気遣うことよりももしかすると基本的なことなのかもしれない。

人が美しく年を重ねて、より成長しながら生きていくためには、実は心身の基礎体力を少しずつでも高める努力を怠らないことにあるのかもしれない。年を重ねるということがすなわち美しく、賢くなるということではないことは当然のこと。
だから、いくつになっても謙虚に毎日を新鮮に生き続けるというのは自分へのチャレンジとも言える。

寒さの中で凛と咲く梅のように。