高校生のときに【声が大きすぎる】と親しい友人に言われて以来、無自覚に声を抑えるようになったような気がする。大きな声の人に元気でない人はいない、という話を聞いたけれどそれは真なりで、そういう風に言った友人は私の過多と言えるほどのパワーが疎ましかったのだろうということがずっとずっと後にわかるのだけれど。それはそのときには与り知らぬことで。
とにかく。声を出す職業なのに声の問題に悩まされてもう10年以上になる。
30代になって入退院を繰り返す原因となった持病が原因だとおもってきた。どんどん話すのがおっくうになり、マイクがないと講義も立ちいかない。本当に目の前にいる人に「聞こえません」といわれる経験を何度となく繰り返していくと、話すのだけではなく、誰かと接することすらいやになってくる。
仕事のクオリティーが保てないので、大きな通訳の仕事は数年前を最後にやっていない。声が通らない通訳なんて仕事にならないのだから。
この国の言葉を教える際にのどの使い様、声の出し方をきっちりと指導できるのになぜか自分の日本語の問題はクリアできない。そんなおかしな状況が何年も何年も続く。かわいい声だと言われるけれど、自分の声は品がないような気がして、全く好きになれなかった。営業トークみたいな声だから。考えてみたら、かなり自分をガードして話してたのだから営業に少し通じるところもあるね。
話すとのどが頻繁に痛むようになったのもこの頃から。喉が腫れる。話したくなくなる。
むりくり話すから、声を出すためにのどがきゅっと締まっているのもわかるようになってきたけれど、何をどうすればいいのかわからなかった。
のどはコミュニケーションを司るチャクラだから、ここが閉まれば当然、コミュニケーションにも難がでる。そんなことはわかっていても、それをどうにかしたいという魂の力強さにかけていたのかもしれない。
瞑想をしたり、体中に気を巡らせても【のど】や【声】の問題と連動させることがなかったのも無意識に避けていたのだろう。それをあることがきっかけでどうにかしよう、と思い出して。
おかしなもので【仕事で使う】という目的での改善は身体がどうやっても反応してくれないのだけれど【息】という生きることと少しずつ連動させていけるようになったところで「声磨き」のセミナーがあるというので参加することにした。
声が出ない原因、身体を共鳴させられていないこと、声という「音」と「呼吸」が連動していないこと。身体に力が入ることで、身体が響かない、声が聞こえづらくなるという話にはなるほどと納得することがあった。
自分の声の力をイヤな形である意味封印されてから、声のパワーを無視してきたように思う。
セミナーの間にふと、ある人のことを思い出した。マリアさんという私が出会ったときにはもう70歳を超えたおばあさまだったけれど、彼女はクリスチャンで日本で最初にオーラソーマをはじめた人。彼女は縁あってこの国にきたことがあって、その昔話を聞くことがきっかけで何度か彼女のセッションも受けたし、自宅にもお邪魔した。
彼女はこの国にきたときに、とある有名な寺のそばでお坊さんたちと知り合いになり一時毎日おそらく時の僧正たちと毎日食事をしたり会話をするのだけれど、それでお経も覚えたのだという。何十年前に覚えた彼女の唱えるお経のパワーといったら。小さなやせたしわくちゃの彼女からは想像もできないような地に響き渡るような魂からの読経だった。小さなお部屋で聞いた彼女の普段の声とはかけ離れた声に圧倒されたのを覚えている。
宗教寺院の多くで祈りの際に線香のような煙の立つものをあげるのはその煙に沿って願いが神に届けられるためだと言う。声だってそうであるはずだ、ということに気がついていく。
声は気であり、気は魂の発露だと言う流れが理解できた私の声は、営業トークのような声ではなくなってきたように思う。ふわりと自分の声を柔らかに身体に響かせられるようになるまであと少し。