ここ数年、意識的に人との関わりを最小限にしているのだけれど、元々の仕事柄、裏方の仕事や秘書的な仕事は一般的な人よりはずっと手慣れているし、苦にもならない。自分の成果にダメ出しをすることはあっても、ひけらかしたり、大きく見せるのも自分らしくない。仕事ではないが、仕事という体裁でやっていれば誰に迷惑をかけるわけでもなく、こなしていけるし、こなしていたと思う。性格的にもそういうのが自分に合っているのだと思う。自分の性質として、数少ない自分のやりやすい、満足のいくやり方なのだろうと思う。
滅私とは、自分を利することを目的とせずに動くということだ。だけれど、社会というのはいつだって、ネームタグを必要とする。「お前は誰で、どういう立場の人なのだ?」「お前がそれをやって何の得になるからやっているのだ?」「それはこちらの利益になるのか?」
今まで幾度となくそういう問いをされてきた。
そういう疑心暗鬼の中に身を置くと、自分の本意や真意を理解してもらうことが億劫になる。こうやって他者との関わりに苦手意識を持つことになるのだけれど。
東南アジアで仕事をしていると、チームだと思っていた相手にすら、こういう理由で梯子を外されることがあまりにも多いのも事実だ。どこにいても、そこに入りきれないから自分から遠慮したり、いづらくて場を離れるというのはもうずっと前からのことだ。それは自分で仕事をし始めるずっと前からで、今に始まったことでは全くない。
まぁ、それはもしかしたら私自身の心の弱さゆえのことなのかもしれないし、一人でも苦にならないからそうしてしまうのかもしれない。一人でいると自分の立場だとかありようは自分が決めた、自分が納得したものでいいのだけれど、そういう自分のまま”人間社会”という”お外”に出ると、またいつもと同じ問いが繰り返される。
”誰々ちゃんのお母さん”も”通訳さん”も立派な立場であって、その場にいて妥当な人、それを行うに能うる人というポジションで好むと好まざるとにかかわらず、なすべきことをするのである。
子供の頃は、この家の娘というポジションがあるにもかかわらず、この場にいるのが妥当だという気がしないで、いつも両親の家に住まわせてもらっているような気がしていた。東京で一人初めて暮らしだして、初めて自分の家だという気がして(こちらが本来なら仮の住まいなのだろうけれど)、何もない部屋で一人ホッと安心して嘆息したことを昨日のように覚えている。
人と人間の違いは、魂の有無だという一節をどこかで読み、それは人と人との間には神様がいるからだという解釈が続けてしてあった。なぜかその一節を読んだ時、ふと、そうか、神様といるのが私は楽なのだなぁ、と思った。神様といる分にはそんなポジションなど気にしなくていいから。
滅私でいるのに、ポジションがいるなんてくだらないと思うし、ポジションを考えると”私は?”という問いが常に出てくることになる。それは、私という存在に実態があるからなのだ。
小さい頃、自分が透明人間だったらさぞかし楽だろうと思っていたことをふわりと思い出しながら、透明人間になれないのであれば、神様といるか、人間社会にいる時はそれ相応のポジションがないといけないのだな、と冷静に思ったりする。それは山には登山靴を履いていくし、パーティーにはピンヒールを、スキーにはスキー靴をというのと差して変わらないのかもしれない。
それが周りに訝しがられることなく(笑)自分らしくやりたいことをやるには必要で、それが満たされない時には、神様といるのが私にとっては気楽なのだなと思う。
(写真はお借りしました)