自分を思い通りに動かすことからすべては始まる。

2014-04-07 15.46.29

今年に入って武道を始めた。

はじめたといっても週一回数時間だからたいした練習量でもないのだけれど。
身体を動かすのは嫌いではないけれど、誰かと相対するとか大人数でやることに子供の頃からの嫌な経験があってずいぶん遠ざかっていた。

知らない人と満員電車でもないのにパーソナルスペースの中にいることや手をつかんだりするのがものすごくはじめは違和感だった。

少人数で教えてもらえることもあって、全くのど素人の私でも無理矢理まねごとみたいに先生たちの後を追ってやっている。

覚悟はしていたことだったのだけれど、思った以上にひどくて驚いたのが【身体が思うように動かない】ということだった。見ているものと同じようにする、ということが全くできない。見たものを理解して身体を動かすという機能が死んでるのかと思うぐらい。何度見ても自分の感覚としては、【わからない】というのが一番フィットした表現かもしれない。

何度言われても、向きが違っていたり、左右が逆だったり。トンチンカンなことこの上ない。

いつもなら「恥ずかしいしもう嫌だ」とやめてしまいたくなるのを、もう数ヶ月続いているのは、指導してくださっている先生が良いのと、身体を動かすことが思ったより楽しいから。

そんな中でプラスの発見もあった。
私の通っていた高校は薙刀が強くて、女子は体育の授業で薙刀が必修だった。

その経験のせいなのだろうか、棒を持ってやる立ち会いだけは何となく覚えが良いのである。何十年経っても身体が何かを記憶しているのだろうか、と思ったりもした。

自分が生きていく過程で、気持ちや思考や行動をコントロールすることは一生懸命学んだし、いろんな経験を積んで来たけれど、入れ物である身体を思い通りに動かすということにいかに無自覚だったのだろう。人間としてバランスの良さを追求して来たつもりだったのに、自分の身体すら思うように動かせない。

そんなときに野生動物と戦うシュミレーションをしている?武井さんの「身体を思い通りに動かす」という記事を見かけた。

詳細はリンクをたどって読んでもらえばいいのだけれど、武道でもスポーツでも上達のためには技術よりも「自分の身体を思い通りに動かす」ということが本質で、そこに視点を転換した上で、「最善の型」にキープできる訓練をしているのだ、と彼はいっているのだという理解をして。

その「最善の型」にあるときの筋肉の張り、手の感じ。そんな風に感覚と筋肉をシンクロさせる。

思考やそれに基づいた行動がコントロールできることがよしんば100%できたとしてもそれは自分というポテンシャルのたった半分でしかないということも教えてもらう。

感覚と筋肉がしなやかに連動するために、身体もしなやかでないといけないとも感じる。
何十年も使わずじまいの錆び付いたこの感覚をしなやかに連動させられるようになれば、人生はまたもっと朗らかになっていくんじゃないかしら、そういう感じがものすごくしている。

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